元祿に開拓せられたる俳風は、明治に至りて消滅す。是を以て、本編は藩治時代の文化を討究するを目的とすといへども、亦爾後の沿革を附載するを便利とすべし。この期に於いては、明治十七年金澤の人石丸桃因の輯めたる今人百人集あり。又十五年澤田犀居閣の編したる當世發句一集あり。前者は小春庵桃守[後攺桃芽]を中心とし、常丸・超翠・龜悦・文器・甫立・幽梅・一川等の句を擧げ、後者は十丈園一川を主とし、常丸・春樵・一景・從容・梅下・文器等の作を列ぬ。而して二書の作風殆ど相如き、天保の俳調にもあらず、嘉永の風格にもあらず、自ら明治特有の色彩を帶びたるもの、最も注意に値すといふべし。 明治時代に於いて、地方俳壇の爲に專ら力を盡くし、その所謂正風俳諧の復興を主唱したるものに蔦の家一派あり。蔦の家は、古く蒼虬の創めたるものなるを、維新の後甫立・賢外・萎文・龜悦・證專等の集團によりて再興せられたるなり。然るに甫立の郷土を離れ、龜悦・證專等の病歿するに及び、纔かに萎文及びその門下を遺すのみとなりしかば、一たび之を解散したりしが、幾くもなく甫立の歸來せるを以て活動を回復し、特に萎文は雜誌白嶺集を出し、二十九年には梅が香集を出版して、加賀五大俳宗北枝・希因・闌更・蒼虬・梅室の句を集め、美濃・伊勢の流を汲む千代尼の作は之を附録として、蕉風俳徒の目標を示し、三十九年には俳諧正式鑑を發行して、連句の趣味を鼓吹するに努め、同時に杖を東西に曳きて交を海内の俳士に結べり。又蔦の家連と別種の團體を爲すものに横山氏一家あり。宗家隆平は受來と號し、支家隆興は居中といひ、尾張の羽洲を引きて師とし、時に甫立・賢外等を交へ、財界に翺翔する餘裕を以て、俳筵を開き、烟霞を侶とし、集册を剞劂に附し、風雅と豪奢とを兼ね樂しめり。是の時に當り東京に正岡子規ありて一新風を唱へ、之に共鳴するもの或は秋戀會を起し或は雜誌ほとゝぎすを刊して大聲疾呼せしかば、西東北南靡然として之に從ひ、明治三十一年金澤の竹村秋竹子・直野碧玲瓏等も亦北聲會を初め、第四高等學校教授藤井紫影を中心として、勢甚だ輕侮すべからざるに至れり。さればかの蔦の家連の牛耳を執れる萎文は、俳諧新誌にその文を載せて、『蒼虬・梅室兩翁以來、天下いまだ俳士の俊傑を見ず。今や六國の如く、足利氏の末世の如く、天下を統一すべき俳士一個もなし。故に正風變風交々入亂れ、おの〱一派の旗幟を飜して唯我獨尊を氣どり、更に底止する所を知らず。』と歎じ、又俳諧白嶺集に『近頃新派と稱するものなどは、寂もなく栞もなく、面白くもなくをかしくもなく、夫をこと〲しく新聞などに載せたるは片腹いたし。又舊派と稱へ、古人の口眞似、古人の句を燒直して得意がるあり、猶更以て見苦し。斯る者あるが故に、新派に卑しめらるゝなり。』と悲憤したるも、大勢の趨く所終に如何ともすること能はず。舊派の殘燭光焔彌微にして、新派の曉鐘春眠を覺醒せしむるに至れり。