加賀藩に於いて、書道を以て名を遺したる者あるは、亦前田綱紀の世に初る。その和樣を以て夙に顯れたるものに池田松齋あり。松齋は本阿彌光悦の高足にして、初は豐臣氏の右筆たりしが、大坂落城の後來りて前田利常に仕へ、その孫綱紀の師となれり。又田内鐵舟あり。鐵舟は一に徹宗に作る。心を書道に潜め、清貧に甘んず。平生灰沙を盤上に布き、指頭之に書して學び、古人の法帖を購ふに資なきときは則妻挐をして飢を忍ばしめ、口腹の給を省きて之に當つ。人之を笑へども鐵舟は恰然たり。遂に其の技に長じ、書名一時に高く、綱紀の祿する所となりて二百石を食み、小將組に列し、右筆を職とす。晩年に至りて壯歳書する所未だ佳ならざるを悔い、之を骨董舖に購ひて火けり。故に存する者甚だ寡しといふ。而して松齋・鐵舟と時を同じくし、最も後世に知られたるものを、佐々木志頭摩及び山本基庸の二人とす。 田内鐵舟筆蹟金澤市黒本植氏藏 田内鐵舟筆蹟