佐々木志頭摩は通稱を七兵衞といひ、京都の人にして賀茂神社の祠人藤木甲斐の門人なり。松竹堂と號し、書を以て加賀藩に仕へ、二十人扶持を賜ふ。その書概ね墨重く肉厚し。綱紀曾て志頭摩に命じて、丈餘の文字を座前に作らしむ。志頭摩謹みて旨を領し、巨筆を握ること杵の如く、跪伏膝行して書せしに、侯は之を賞して絶技といへり。又妙法院入道親王命じて方廣寺の下馬牌を書せしめしに、累月にして果さゞりしかば督促甚だ嚴を加へたりき。志頭摩乃ちその稿の二長櫃に滿ちたるを使者に示して曰く、僕敢へて令旨に反くにあらずといへども、未だ意に適するものを得ざるを如何せんと。使者歸りて之を告げしに、乃ち志頭摩の佳良なりとする字を擇びて接續摹勒せしめたりき。志頭摩燕居するときは、則ち左手に右手を承け、保持すること極めて厚し。人その故を問ひしに、應へて曰く、運筆の際顫掉せんことを恐るゝが爲なりと。又常に黒漆の塗板方三尺なるを設け、その面に水書して體勢を整へ、名づけて玉板と稱す。晩年致仕して京に歸り、剃髮して專念翁と號す。元祿八年歿する時年七十三。千字文・敬齋箴・佳墨集・橋記等の法帖世に行はる。志頭摩の女を照元といひ、亦長恨歌・賢臣頌・赤壁賦・千字文・唐絶句・入墨玄妙等の書蹟あり。志頭摩の高足に荒木是水ありて又金澤に來寓せり。 山本基庸、通稱源右衞門、宇は子遠、持明院基時に就きて書訣を得るに及び、初名惟明を改めて基庸とせり。基庸最も臨池の技に長じ、筆意極めて優麗。然れども書體その師に比すれば絶えて似ることなし。古人の所謂神を得ることを尊びて形に在らざる者なり。藩人遂に基庸を以て墨場の聖となし、その纎婉なるものに遇へば之を拱璧に比せり。室鳩巣嘗て基庸に贈りし詩に、席間筆落換鵞寫の句あり。元祿十年基庸持明院入木道書式一卷を著す。 加賀藩の右筆は、素より各時代に於いて筆札に優秀なる者を擇び、之に任じたりしといへども、別に右筆を以て世職となすものあり。櫻井・土師二家は即ち是にして、又綱紀の時に祿仕せしより起る。 山本基庸筆蹟金澤市瀬川重太郎氏藏 山本基庸筆蹟