櫻井正可は通稱を爲兵衞といふ。父基安は初め越前侯松平忠直に仕へしが、慶長の末年流浪して本國河内に退隱せり。正可正保二年前田綱紀の徴す所となり、祿二百五十石を食み、天和二年七十歳を以て歿す。土師正庸は通稱を清太夫といひ、亦同じく綱紀に聘せられて祿四百石を受け、元祿十年菅家不審問答一卷を著せり。土師氏の出自は今之を明らかにすること能はずといへども、子孫世々櫻井氏と共に藩の右筆となりしものなり。而して櫻井氏に在りては、正可の妻が幕府の右筆大橋龍慶法印の女にして、二世平十郎正世の妻も亦大橋長左衞門の女たりしが故に、その手跡も全く大橋氏に學び、流派を大橋流と稱したりしが、第五世爲兵衞可享の時、土師清十郎の女を娶るに及び、土師氏と共に土師流と稱するに至れり。加賀藩の筆札を掌る士は、皆土師・櫻井二家の門下中優秀なるものを選び、之を新番組に班せしめて右筆の事務に當らしむるを例とせり。 唐樣の書家には、綱紀の時に井出正水あり。自から一家の風を爲し、名づけて正水流といふ。正水の楷法は圓遒の趣乏しくして稜角の勢多く、草書は則ち臥筆横筆、淡墨を以て神髓を瀟洒縱逸の中に取り、その蒼勁得意の處に至りては天機生動せり。正水の門下に高田方水・赤井得水・和田淡水ありて、世に之を正水門下の三水と稱す。方水の子に文堂あり。正水流の硬勁なるを化して優婉となし、稜角を去りて圓熟ならしめ、稍和樣に近似するに至る。是より世人正水流を一に高田流ともいへり。降りて前田治脩の時に至り、淺野屋秋臺・楠部屋芸臺の二人、市人より出でゝ大に聲名を博す。次いで岡野黃石あり、儒を以て書を兼ぬ。凡そ唐樣の書家中、藩政時代を通じて秋臺・黃石二人を巨擘とすべしといふ。同時に市河米庵江戸に在りて加賀藩の祿を食み、齊廣の嗣子齊泰の爲に書を教ふ。齊泰素より翰墨に長ぜしが、米庵の薫陶を受くるに及び技益進み、遂に諸侯中の隨一を以て屈指せられ、禁廷亦命じてその揮毫を上らしむるに至れり。葢し我が國、享保以降入木道に達するものなきにあらずといへども、未だ全く和臭を脱するに至らず。後臨池の技特に進歩せしは米庵の鼓吹によると言はる。而して米庵の江戸に在るに對して、金澤には橘觀齋あり、書を以て子弟を教育す。世人皆稱す、臨池家概ね長ずる所あり短なる所あり。啻り觀齋に至りては諸體悉く能くせざることなしと。或は曰く、觀齋の書機鋒乏しくして風韻を缺く憂ありと。然れども運筆の自在なる點は、多くその匹儔を得べからず。稱して觀齋流といひ、大に世に行はる。藩末に至りては、書を以て仕ふるものに市河遂庵あり。儒にして書を善くするものに長井葵園・榊原拙處等あり。拙處頗る多技にして、詩文を好み丹青に長じ、書の如きは師傳なき餘技に過ぎす。曾て人の孝經千紙を書せしものあるを聞き曰く、我豈之を能くせざらんやと。乃ち朝餐前を以て孝經揮毫の日課に充て、細楷を以て全文を一紙に書すること、殆どその死に至るまで渝らざりき。今往々にして存するものあり。その他高田石水・高田蘭堂・橘觀齋[二代]・佐藤衡齋・山納蘭山・橋健堂・土田南皐・直江菱舟・橋石圃等、各門戸を構へて子弟に教授す。是等の中、最も盛なるを正水流の高田氏と觀齋流の橘氏とし、一は城下の東部に威を振ひ、一はその西部に勢を張れり。されば金澤東西勝負競といふものに、『東、幾代もつゞく正水流。西、二代目なれど橘觀齋』とさへいひけるなり。今此等書家の略傳を載す。