赤井得水、名は明啓、通稱を文次郎といふ。初め書法を井出正水に學び、後に佐々木志頭摩に親炙して、頗るその風を善くす。故に墨痕淋漓として、肉甚だ厚し。著す所筆法蒙引・時用文案・俳階閨梅あり。又書蹟に眞字千字文・草字千字文・八景詩歌・同文異躰・四箴・献壽法帖・勸學文・字府・永凝帖等あり。 和田淡水、諱は迪賢、通稱を田上屋彦四郎といひ、金澤御門前町に住して藥種の販賣を業とす。淡水書を正水に學び、その技に熱中して遂に産を傾くるに至る。享保十三年五月二十六日歿す。 淺野屋秋臺、通稱彦六、金澤の市人にして製疊業者とし、晩年市吏となる。秋臺はその號にして、別に戴笠道人・阮簑野王・阮簑鎌叟・端王簑・海石老人・青簑道人・恬處道人・息齋・半僧道人・半兼老人・半禪居士・阮鎌人・遂初道人・鐵華居士・周臺等の數號あり。秋臺初め松花堂の書法を學び、後蘇東坡の風を慕ひて堂奧に達す。その資性恬淡寡慾、頗る酒を嗜み、貧に處して晏如たり。故にその書蹟も亦瓢逸佚蕩、寸毫も俗氣を帶びず。傍ら篆刻の技に精しくして秋臺印譜を著し、茶事に堪能にして啓沃軒隨筆を遺し、詩を作り戲畫を描けり。貫名海屋の北遊するや、秋臺を見てその爲人を愛し、歸東の後之を招きて名を爲さしめんと欲したりしも、秋臺は遂に辭して往かざりき。海屋常に秋臺を呼ぶに名八を以てし、加賀の人に遇ふときは、先づ名八の安否を問ふを常とせり。名八とは、當時秋臺の用ひたる雅號八種に上りたるが故なり。秋臺平生硯を愛し、晩年中風を憂へしも尚座右より放たず、文化十二年十月六日之を枕として歿せり。この年正月秋臺通稱を改めて幸内といふ。葢し絡身幸福の日なかりしをいふ。 淺野屋秋臺筆蹟金澤市太田敬太郎氏藏 淺野屋秋臺筆蹟