橘觀齋、諱は應、字は子鼎、有朋と號す、觀齋はその俗稱なり。鳳至郡柳田村の人にして、家世々農を業とせり。父を十郎兵衞といひ、觀齋はその長子なり。觀齋八歳にして夙く書を能くせしかば、叔父某試に廣澤の法帖を學ばしめしに、頗るその筆意を得たり。是より觀齋は志を立て、十六歳にして浪華に往き曾谷學川に從ひ、尋いで堺に至りて趙陶齋に學び、後更に業を細合半齋・龍草盧に受く。この間十有一年、潜心勉勵し、遂に自ら一家を爲しゝかば、鵝群閣を金澤に開きて子弟に授くるに至れり。天保十一年六月二十九日を以て歿す、年七十六。觀齋子なかりしを以て、妻の甥順也を養ひて嗣たらしむ。順也亦觀齋と稱し、町儒者となり、書道を以て業とし、寺子屋中に牛耳を執れり。明治以降小學校教育に從事し、同三十二年七十三歳を以て歿す。 秦蘭州、諱は致、字は叔翁、兵右衞門と號す。金澤の人和泉屋某の子なり。父死して兄は業を失ひ、獨喪心の妹と共に居り、裝潢を以て業と爲す。最も書を好み、寸楮尺縑獲れば則ち之を習ふ。晋唐宋元窺はざる所なく、而して李北海を以て宗となす。毎に世の書家の形態に苦心して神意を會せざるを病む。花晨月夕文人墨客の雅筵を開くときは、蘭州必す筆研を以て之に臨み、優遊娯樂未だ嘗て衣食を以て憂となさず。その詩は眞率朴摯なるも藁を留めず、和歌も亦甚だ拙なり。蘭州病妹の故を以て終身娶らず、明治三年八月十一日歿す、享年五十三。 橋石圃、名は敬、宇は子義、通稱を安左衞門といひ、後徃來と改む。石圃・間遊は皆その號なり。初め橘觀齋に從ひて學び、嘉永四年家塾を開き、翌年町儒者たるの免許を得、慶應三年藩の書寫役傭となる。明治の後小學教育に從事し、十二年七月三十日歿す、享年六十二。