加賀藩に於いて測量の技に精しきものは、夙く板屋兵四郎あり。寛永九年犀川の水を引くこと二里餘にして金澤城中に注ぐ。然れどもその術の傳承を詳かにせず。又前田綱紀の世に當つて兵學者有澤永貞あり。町見術を講究し、之を子武貞に傳ふ。永貞の著せる北道里圖は金澤より江戸に至る驛路の距離・河水の廣狹・山嶽の方位等を詳記せるものなるが、亦この智識ありたるに因る。武貞に至りては寶永八年有澤流町見便蒙鈔の著あり。又金澤町割圖を製す。その大きさ八疊敷。もと横山大和守貴林の家に藏する所の大絡圖を補正せしものなりといへども、武貞が三十九年の星霜を費して享保十九年に成れること、その餘白に記されたる圖成辨に見ゆ。武貞の弟致貞に至つては、算數と陰陽の學に長じ、享保十五年暦本抄を著せり。籌算式は乘除句法を用ひずして器械的に之を行ふものとし、明に在りては竹策を籌とす。暦本抄は節氣陰陽に關する暦日書なり。之に次いで本保以守あり。明和・安永の交京に在りて天文を土御門家の暦官西村僊介遠里に學び、又山崎流測遠術に通ず。その測遠術は以守之を宮井安泰に傳へ、安泰は越中の石黒信由に傳ふ。信由は文政・天保の交遠藤高環を輔け、加越能三州の地圖を大成せしを以て最も名を著しゝ人なり。遠藤高璟の學は何れより來りしかを知らざるも、亦この時代の先覺にして、泰西學術の頗る優秀なるものあるを知り、機械の製造利用に趣味を有せり。又本保以守と同じく遠里の門より出でたるものに、越中の人西村篤行あり。その學最も深なるを以て、同窻學友の推稱する所たりしが、文政中來りて加賀藩に仕へ、高璟の配下に屬して金澤分間繪圖を製し、且つ暦法に關する著作を爲せり。その頃又江戸に本多利明ありて、頗る西洋實用の學に通曉せしが、文化六年加賀藩の祿を食むに及び、士民の之に就きて學ぶもの多く、殊に長谷川猷・三角風藏二人の如きは、或は地理學を考究し、或は測量に從事して造詣する所あり。天保中蘭醫黒川良安の越中より來りて金澤に住するに及び、また之に從遊するものを見、老臣長氏の醫明石昭齋、横山氏の醫津田隨分齋の如きは、蘭書によりて天文・舍密の學を習ひ、河野通義・加藤九八郎等は天文暦數の事を聽けり。次いで藩士河波有道は、安政五年江戸に至りて蘭學を村田藏六に學び、歸國の後渾天儀を改造する等のことありしも、彼等の努力は多く外國語の義理を解釋する以上に出づる能はず、科學の發展に關しては甚だしく得る所あらざりき。今左に特に功績ありし此等諸家を傳す。