本保以守は通稱を十太夫といひ、馬廻組の士本保三郎兵衞の第二子にして、その家を嗣ぎ、祿千八百石を食めり。嘗て京師に勤番中暦術家西村僊介遠里に就きて象緯術數の學を受け、又能く測遠山崎流の蘊奧を極む。葢し山崎流なるものは山崎兵太夫に始り、小田定行・田中彦七・中谷玄兵衞を經て遠里に傳はれるものなりといふ。以守人と爲り敏慧、頗るその師の重んずる所となる。以守の初めて贄を取るや、遠里彼の才を試んと欲し問ひて曰く、今子が把る所の白扇、果して何の形状を象りて作れるものぞやと。以守聲に應じて曰く、これ圓を三截して成るものにあらずやと。遠里その凡庸にあらざるを愛し、遂に授くるに暦學の秘奧を以てせり。以守亦建築の理に詳しく、擧げられて作事奉行となりしが、繩墨の事に於いては耆宿といへども敢へて一言を挾むを許さゞりき。その著に造作辨二卷あり。寛政四年藩校明倫堂の成るや、以守天文學の教授を擔當し、同六年二月を以て歿す、年七十。