宮井安泰は通稱を柳之助といひ南畝と號し、定番足輕より出でゝ新番に上る。最も三池流の算法に精しく、亦傍ら本保以守に學びて測遠の學に通じ、天明六年規矩元法別集を著す。文化十二年八月二十二日歿す。 石黒信由、通稱藤右衞門、越中射水郡高木村の人なり。信由關流算法の秘奧に通じ、特に宮井安泰に學んで測量を能くするを以て、屢藩命を奉じて各地の丈量に從事し、文政元年四月新田裁許に任ぜらる。同二年以降信由加越能三州地圖の作製に從ひ、七年加越能略地圖及び村名簿三册を製して之を藩に上りしに、藩はその功を賞するに五人扶持を以てし、その他檢田測地に從ひて賞賜せらるゝこと前後數回に及べり。天保六年加越能三州地圖成る。前田氏の領國に完全の地圖あるもの、之を以て初とす。七年信由射水郡年寄の班に列し、同年十二月三日を以て歿せり、享年七十七。著す所測遠山崎流等あり。信由の門下五十嵐篤好は礪波郡内島村の人、亦新器測量法等を著し、晩年金澤に住して文久元年に歿せり。 西村篤行、字は審之、通稱太沖、得一館と號す。明和四年越中礪波郡城端に生まる。父は賈人なり。篤行天文暦數の學を好み、京都に往きて西村遠里の門に入り、その蘊奧を極む。天明七年遠里歿して子なし。門人皆篤行を推してその後を嗣がしむ。是を以て西村氏を稱す。既にして又大坂に往き、麻田剛立に學び、寛政十一年加賀藩の召す所となりて天文學を明倫堂に講ぜしが、講義に適せざるを以て容れられず。乃ち郷に歸りて醫を業とする傍ら益その學を研究し、遂に藩主前田齊廣の召す所となり、醫員格に列し、俸十五口を賜ひき。時に文政四年にして、翌年以降金澤分間繪圖の作製に從へり。天保六年五月二十一日歿する時年六十九。北陸略暦・皇和通暦補等の著あり。昭和三年十一月十日正五位を贈らる。