本多利明は通稱を三郎右衞門といひ、北夷又は魯鈍齋と號す。父伊兵衞はもと加賀の産なりしが、人を害して越後に走り、延享元年利明をその地に生めりといへども確證を得ず。利明十八歳の時江戸に出で、中根元珪の高弟今井兼庭に就きて數學を學び、又天文學を千葉歳胤に、劍法を山縣大貳に習ひて皆その奧儀を極め、明和四年遂に牛込音羽町に私塾を開きて子弟に教授せり。時に利明二十四歳にして、その教ふる所は數學・天文・地理・測量の諸科に亙り、人皆尊びて呼ぶに音羽先生の名を以てせり。是に於いて諸侯の之を辟すもの多かりしが、利明は辭して應ぜざりき。既にして利明深く世態の推移に感ずる所あり。教授の餘暇蘭書を繙きて航海の學を修め、説を爲して曰く、露帝彼得の能く富強を致し、國土を有すること甚だ大なるに至れるは、その初彼自ら工人となりて造船の技を學び、遂に多く巨船を備へて各國と貿易せしに因る。國を治むるもの深く思をこゝに致さゞるべからずと。又曰く、富強の本は貿易に在り。貿易の本は航海に在り。航海の本は船舶に在り。而して能く船舶を操縱して過誤なからしめんには、必ず天文・地理・數學の力に待たざるべからずと。乃ち音羽の學舍を門人坂部廣胖に託して、意を經濟の研究に專にし、常に四方に歴遊して地理民俗物産交通の状況を視察し、又西域物語一卷を著して開國通商の利を主張し、尋いで天測表三卷・天測表用例二卷・正弧斜弧矩合往來三卷・航海新法一卷を編して船舶操縱の法を説けり。凡そ我が國に航海術の書ある、實に之を以て嚆矢とす。天明・享和の交利明幕府の命を受け蝦夷に往くこと兩次、自ら船頭と稱して航海一切の指揮に當れり。文化五年幕府三たび利明をして北航せしめんとせしが、この時利明齡既に老いたるを以て、門人最上徳内をして代り赴かしめき。當時利明の名聲世に藉く。加賀侯前田齊廣之を聞き、同六年召して俸二十口を賜ひ、利明乃ちこの秋を以て金澤に來り住す。帳秘藩臣録に、『二十口、本多三郎右衞門。武州江戸浪人、天文蘭學者也。爲合力二十口可賜旨於金澤命下り、三月八日彼地え申遣し、五月廿三日申渡す。同年七月十九日金澤え來著、貸屋に居住。』といふもの即ち是なり。是より利明屢齊廣の諮詢に應じて歐洲諸邦の形勢を語り、又軍艦の模型を造りて之を城内二ノ丸の能舞臺に陳列し、齊廣の爲に操縱の法を説けり。淹留半歳、重臣以下就きて學ぶもの多かりしが、後再び江戸に歸りて前田氏の本郷邸の傍に住し、文政四年三月十六日を以て歿す、年七十八。加賀の門人關貢秀等深く之を惜しみ、碑を河北郡傳燈寺の境内に立つ。大正十三年二月十一日朝廷贈るに正五位を以てせらる。