本多利明の金澤に在りしは短日月に過ぎざりしといへども、その加賀藩の俸を食みしは十三年に及べり。この間藩士の東武に祗役し、或は書信を以て益を請ふもの多かりしが、就中長谷川猷の如きはその尤なるものなりき。猷通稱は源右衞門、頗る外國の事情に通ず。常に大地球儀を丑成閣に垂下し、回旋して地理の精査研究に便じ、具眼の士を以て稱せらる。嘉永二年歿す。 利明の門下より出でゝ最も異色あるものに三角風藏あり。風藏は河北郡二日市村の農池田屋又三郎の次子にして、初名を庄右衙門といひ、天明四年八月を以て生まる。風藏金澤に出でゞ、文化二年藩の割場附足輕となり、侯東觀の際、これに役せられて江戸に至ること數次。時に利明加賀藩邸の附近に住せしを以て、風藏は之に就きて測量術を學びしが、黽勉努力文政二年に至りて皆傳を得たり。この年風藏在府の期滿ちたりしかば、旅費の大部分を割き測量機を購ひて國に歸れり。同五年金澤分間繪圖の作製せらるゝや、風藏乃ちその事に與り、天保元年圖中に諸士屋敷の記入を命ぜられ、同十四年九月より能登海岸の測量に從ひ、安政五年七月に至りて退隱す。その死は明治元年四月にして享年八十五の時に在り。藩主齊廣嘗て測量術の一部たる長間鎖用法を學ばんと欲し、°居室の庭前に於いて之が練習を試みし時、風藏は之を輔け、又藩有の風炮は彼をしてその修理保管に任ぜしめき。是を以て遂に姓名を三角風藏と賜ひたりといふ。蓋し三角は根發より採り、風藏は風炮より來りしものにして、その風炮といふは壓搾空氣を以て銃丸を發射せしものなるが如し。初め風藏の江戸に在りし時、幕府旗下の士にして炮術師範たりしものに就きて學びしに、一日風炮を用ひて厚八厘の銅板を貫通し得たるを見、以爲らく火藥を用ふるなくして威力の大なることかくの如くならば、その利實に計るべからず。願はくは我が藩をして之を採用せしめんと。則ち在江戸の老臣村井氏に就きて之を勸説し、遂にその意見を容れらるゝに至れり。是に於いて藩は、風炮の製造者江州國友村の次郎助を聘して細工者たらしめんとし、風藏を遣はして之を招致せしめ、二ノ丸に鐵炮役所を置きて製造せしめたりき。以上の諸家皆主として天文・暦法及び測量等に關して學習する所ありたるが、その最も偉大なる業績を遺したるは遠藤高璟に如くあらず。故に今特にこれに就きて詳述する所あらざるべからず。