遠藤高璟、通稱は數馬、老後は是三といひ、字を子温、號を紫山といふ。人持組の士玉井主税貞通の次子にして、天明四年二月十五目に生まれ、寛政七年遠藤直烈の嗣となり、二年の後世祿七百石を食み、馬廻組に班す。文化十年江戸に赴き、金澤に歸りて作事奉行となり、十四年普請奉行に轉じ、文政元年表小將横目となり、二年以降前田齊廣の命を受けて石黒信由の加越能三州地圖作製を監し、三年表小將番頭となり、五年御側物頭に進み、西村篤行等を督して金澤分間繪圖の作製に着手し、六年には竹澤御殿時鐘の法を改め、七年職を罷めらる。八年秋彗星出現す。高璟西村篤行等と共に之を觀測してその軌道を星圖に記入し、十年又三角風藏等を助手とし、河北郡高松濱に於いて地球半徑の測定を試む。次いで十一年また出でゝ新番頭となり、天保元年金澤町奉行に轉じ、同年分間繪圖の功を終へ、六年加越能三州地圖作製の事を終り、七年馬廻頭兼算用場奉行となり、弘化二年定番頭に准ぜらる。四年高璟定番頭に陞り、尚算用場奉行を兼ねしが、六年古稀の齡に達したるを以て、家を男高朗に讓れり。高璟平素洋學者と親しみ、殊にその徒を庇護する所あり。西村篤行・河野通義・加藤九八郎・三角風藏の登庸せられたるもの、皆高璟の推輓によるといふ。元治元年十一月二十一日歿す、享年八十一。昭和三年十一月十日從五位を追贈せらる。 遠藤高璟自畫像金澤市遠藤道雄氏藏 遠藤高璟自畫像