遠藤高璟の晩年と時を同じくして中村屋辨吉あり。號は一東、別に鶴壽軒ともいひ、天保二年京都より來りて石川郡大野に住めり。辨吉の出自と移住の理由とに就きては、毫も之を明らかにすること能はず。彼は學問に長ぜずといへども、能く螺旋仕掛によりて自動する人形・動物等を作り、寫眞の術を考へ、電氣を翫び、爆藥を製し、彫刻に秀で繪畫を好めり。故に世の工夫發明の事を談ずるもの、嘖々として之を賞揚し、兒童走卒といへども辨吉の名を知らざるなきに至れり。或は曰く、辨吉藩醫坂元愼に請ひて蘭書の器械學に關するものを讀ましめ、己は挿圖を見て直にその理を悟ることを得たりと。明治三年五月十九日享年七十を以て歿し、大野の傳泉寺に葬る。 加賀藩の算學に在りては、有澤致貞が享保八年籌算式を著し、同十年算法指要を出せるなど最も早く注意すべし。葢し籌算式は明時代に存したるものにして、竹策を籌とし、乘除の句法を用ひず器械的に加減を以て之を遂行するの術とし、算法指要は之が説明書なり。然りといへども算學の大に精緻となれるは、關流及び三池流が藩内に傳はりたる後に在り。 算法奉額石川郡松任町若宮八幡神社藏 算法奉額 算盤七尾市丹後關太郎氏藏 算盤