關流の算法を早く金澤に傳へしは寛政中の和田耕藏なり。葢し流祖關孝和より江戸の建部賢弘・京都の中根元珪・同彦循・大橋充敷を經て五傳せるものなり。耕藏より中野庄兵衞續從・近藤兵作信行に相傳ふ。又關流の別系を傳へたるものに越中の石黒藤右衞門信由ありて、信由は天明中之を富山の中田文藏高寛より受く。大聖寺の伊藤傳右衙門克孝も亦同じ頃江戸の神谷定令及び高寛に習ひて、西尾治郎右衞門一起及び河島欣左衞門偕矩に傳ふ。又七尾に志摩吉兵衞好矩ありて、業を越中の高木久藏允胤に受く。允胤の父を吉兵衞廣當といひ、亦中田高寛の門下に出づ。今是等の主なるものゝ略歴を掲ぐ。 和田耕藏は加賀藩の定番歩にして算用場に勤務し、祿五十五俵を受く。嘗て京師に在りて算學を大橋精七郎充敷に學び、寛政四年十一月その皆傳を受け、歸りて明倫堂の師範に列す。門人に北村大作ありて、同十年卯辰觀音院に算額を奉納せり。 中野續從、通稱庄兵衞、明理堂と號す。寛政十年定番歩となり、俸四十俵を得、算用場に勤務し、同年その師和田耕藏に代りて明倫堂の算學師範となり、文政元年作事場算用方主付を兼ね、六年子弟教育に功あるを以て十俵を加賜せらる。天保三年四月歿、享年七十七。續從の養子與十郎正直は天保四年算用者に召出され、時の師範近藤信行より皆傳を受け、安政六年七月を以て逝けり。 近藤信行、通稱兵作、新規矩齋と號す。加賀藩の士にして、弘化四年家を襲ぎ、祿百八十石を受く。信行公務の傍ら算法を中野續從に受け、續從の後を受けて明倫堂の師範となり、石黒信由著算學鉤致下卷の解・轉寫之解・約術解・算題三十好再解・關孝和編算法飜變の解等を著し、明治六年十一月十一日歿す、享年七十四。