石黒信由、通稱藤右衞門、越中射水郡高木村の人。算法を富山の中田文藏高寛に受く。信由の著す所、算學鉤致・渡海標的ありて世に行はれ、又關流算法指南書百九十三卷はその家に藏せらる。信由の門より出でゝ最も名を知られたる者に五十嵐篤好あり。篤好は越中礪波郡内島村の人、來りて金澤に住し、晩年寧ろ國學者として名を知られたりといへども、亦金澤の數學界を刺戟せし所少からざりしなるべし。その他尚信由の教を受けたるものに、金澤の人日下理兵衞[初名元次郎・文太夫]・雄守・今村嘉平太復禮・宮川要助忠和、羽咋郡白瀬の人白石莊九郎重秋等あり。日下雄守と今村復禮とは、享和元年臘月金澤卯辰觀音堂に算法を解せる額面を掲げ、享和三年九月には同じく野町神明社に奉額し、宮川忠和は文化二年八月野町神明社に奉額し、白石重秋は文化十年三月能登羽咋郡一ノ宮に奉額す。而して信由の弟子越中射水郡の筏井四郎右衞門滿好に學べる加賀石川郡本吉の岡田理兵衞業次と明翫傳兵衞孟啓は、文化二年三月本吉の山王社に奉額せり。此等算法の問題と解答とは、皆文化十二年印行の算學鉤致に載せらるゝを見る。 志摩好矩、通稱吉兵衙、七尾の人。元と能登部の産にして、家を丹後屋と稱す。關流の算法を富山の高木久藏允胤に受け、文政中郷人に指南す。その子吉左衞門則正亦允胤及び父好矩に學び、文政六年久麻加夫都阿良加志比古神社に奉額す。好矩・則正二人の用ひたる算盤は挿圖の如く、左半は横に兆・千・百・十・億・千・百・十・萬・千・百・十と記し、右半亦横に分・釐・毫・絲・忽・微・纎・沙・塵・埃・秒と記す。而して中央一列の顆を挾みたる左右には、竪に商・實・方・上廉・次廉・三乘・四乘・五乘と記せり。こは算木を用ひて高次方程式を解く方法を算盤によりて遂行するものにして、この種の器具は全國實に稀覯のものに屬すといふ。好矩は天保九年四月に歿し、則正は同十三年九月に歿す。