伊藤克孝、通稱傳右衞門、大聖寺藩の歩士なり。天明中江戸に出でゝ神谷定令及び同門越中の中田高寛に關流の算法を學び、皆傳を受け、歸藩の後專ら算用場に勤務し之を子弟に授く。寛政十二年功によりて金十兩を賜はり、享和二年亦加俸を得て十五俵を受け、文化六年正月五十二歳を以て歿す。克孝の門人等寛政十一年算題十二章の額を山中温泉藥師堂に奉納す。今存せず。 西尾一起、通稱治郎右衞門、大聖寺の市人なり。伊藤克孝の門に入りて算法を學び、寛政十年より享和二年に至るまでに皆傳を得、同年隱居して名を一守と改め、文化十一年正月七十四歳を以て歿す。その子治右衞門一良業を父に受けて天保八年六月六十一歳にて歿し、一良の子治郎右衞門は初め一良を襲名し、後に一知と改め、明治十三年六月六十五歳にて歿す。一知の子に治右衞門一之あり、後に次郎作と改め、大正元年六月六十八歳を以て歿す。一之に門人多く、その元治元年以降入門せるものゝみにても十二人を數ふ。一之の明治三年に奉納せる算額は、今山下神社に存す。 小池餘樂、通稱米屋五兵衞、諱は常徳。大聖寺の人。算學を西尾一起に習ふ。後回國の算士を自家に宿泊せしむること三年にして之に師事せり。明治十六年火災に逢うて金澤に移り、十九年十月一日七十六歳を以て歿す。餘樂又書を善くせり。 倉屋一貫、通稱喜兵衞、勝尾氏を冐す。亦大聖寺の市人にして小間物を業とす。初め算學を西尾一知に學び、後に小池餘樂に就く。一貫菅生石部神社・山代藥師堂・那谷觀音堂・山下神社等に算額を献る。明治五年四十歳を以て歿。 河島偕矩、通稱欣左衞門。文化四年大聖寺藩の算用場に入りて小算用となり、後に小算用頭取に進みて祿二十四俵を受く。算法を伊藤克孝に學び、天保四年十一月四十九歳を以て歿す。