山口知貞、通稱を半平といひ、後に吉太夫と改む。大聖寺の藩士にして祿六十石を受け、藩札手形取締役たり。知貞寛政初年に生まれ、文久元年正月隱居す。その嗣を貞右衞門といひ、梅園と號し、畫を能くし兼ねて算法に達す。 坪川常通、通稱與右衞門、榮郷と號し所居を得夫齋と名づく。大聖寺藩の歩士にして算用場に勤務し、算法をその師山口知貞に受く。明治維新の後名を文八と稱し、尚和算を教授せり。 三池流の算學は寶永・正徳の比大坂の人三池市兵衞が金澤に來りて、老臣前田孝資の家臣山本彦四郎に傳へたるに起り、彦四郎は之を西永廣林に傳ふ。廣林の門下に下村幹方あり。幹方の門下に村松秀允あり。秀允の門下に宮井安泰・馬淵文邸あり。安泰の子光同あり。光同と時を同じくして柴野美啓ありき。而して安泰の門より出で、最も數の妙境を開拓せるを瀧川有乂とし、別に瀧川流を稱す。又有久の子友直の啓發を受けて、遂に西洋數學の智識を鼓吹せるものに關口開あり。開能く後進を誘掖し、爲に明治時代に於ける石川縣は、數學教育の優秀を以て一時名聲を天下に轟かせり。 西永廣林、通稱儀左衞門。享保九年算用者に召出されて、藩の老職の執筆となり、寛延三年小頭に進み、食俸八十石を受け、算用場に出仕す。廣林の師山本彦四郎嘗て段數不知の術を工夫し、未だ之を廣林に傳へずして故ありて罪を得、幽居面語する能はず。廣林乃ち深く思を凝らして一朝之を解するを得。因りて享保十年段數不知明解の書を著す。明和元年八月十九日歿し、養子助五郎廣和家を襲ぐ。 下村幹方、通稱九郎太夫。算用者となり、後小頭に進んで新知八十石を食む。明和九年五月六日歿、享年六十九。幹方三池流の算法を西永廣林に學び、未だ段藪不知の術を得ず。廣林の歿後嗣廣和よりその書を傳へられ、明和七年不知明解口授を草せり。