村松秀允、通稱金太夫。算用場の吏となり、祿四十俵を受け、寛政四年明倫堂算學教授役となる。時に年五十一。秀允は下村幹方の門下に出づといへども、その段激不知明解は西永廣和より直接に受くる所なり。 宮井安泰、通稱柳之助、南畝と號す。天文・測遠に通じ、兼ねて算法を村松秀允に學ぶ。天明五年定番歩となり、祿三十五俵を受け、享和二年新番組に進む。安泰安永九年圓積義解を、十年弧矢弦解術を、天明三年三器要解を、六年演段式解及び算法得此を、七年算法闕疑抄弧背正術を、享和三年算顆凡例を著し、又明倫堂開校以來算學師範たり。文化十二年八月廿二日歿。その子に柳之助光同あり。初諱持泰又は民同、規矩齋と號す。文北十三年定番歩となり、天保元年祿五十俵に進み、六組御歩横目となりしが、四年四月死せり。光同の門下今村薫禮成・笹塚忠左衞門有義は連幣算法を著し、文政・天保の比の三池流の算額を集録せり。 又村松秀允の門下に馬淵文邸あり、通稱皐吉又源太夫、柳郷と號す。寛政十年以後秀允の後を受けて明倫堂の算學師範に列し、享和二年數學衰垜を、四年勾股弦無奇術解を著す。天保元年七月十一日歿。子源左衞門立道亦算學師範となり、慶鷹二年正月十日歿す。 柴野美啓、通稱優次郎、方中と號す。梅澤氏より出で、文政八年老臣長氏の臣柴野吉左衞門に養はれ、次いでその家を襲ぎ、食俸七人扶持を受く。美啓資性剛毅にして細故に拘泥せず。その師承を詳かにせずといへども算學に通じ、門下吉田勇五郎兼三・加藤作左衞門貿直等の算額は連幣算法に載せらる。美啓又金澤傍近の古蹟を調査して龜之尾之記の著あり。 瀧川有乂、字は子龍、新平と稱し、崇山又は規矩亭と號す。父の名は有中、藩の定番御歩たり。有乂少くして宮井安泰に從ひ、算法を學びて造詣する所あり。以爲く數學の道豈こゝに盡きんやと。將に益研究してその精蘊を極めんとす。則ち百家の遺書を搜り、珍籍あるときは重貨を捐てゝ之を購ひ、その購ひ得べからざるは謄寫せり。故に算數の文献にして、凡そ世上に有る所のもの、一として藏弆せざるなきに至れり。有乂則ちその長を採り短を棄て、遂に自ら一家を爲し、稱して瀧川流又は規矩流といふ。是に至りて遠近教を乞ふもの麕至せしかば、有乂は爲に教場を開き、官暇之を導きて倦怠する所なかりしに、學者各材に從ひて成就する所ありき。文政二年有乂父に繼ぎて祿を承け、その術に精しきを以て藩の算用者となり、後諸職に歴任して勤謹公潔の名を得しが、弘化元年九月十三日暴かに疾みて歿せり。享年五十八、野田山の塋域に葬る。有乂書を著すこと甚だ多く、その中に神璧算法別術二册・精要算法別術三册・算法探索諺解二册・算術要法五ヶ條法則一册等あり。而して未詳算法十八編は、最も浩翰なるものなるのみならず、瀧川流の眞髓を發揮せるものにして、或は自ら編し、或は門下をして輯めしめ、著作年代は文政七年に初りて、略その遠逝の前に逮べり。未詳算法とは今の平面幾何・立體幾何及び微積分の一部を含むものとし、この算法たるや後人益發明する所あるべく、今に於いて尚確定に至らざるが故に未詳と名づけしなりといふ。その編次は左の如し。 未詳算法第一編文政七年、門人石田保之著、瀧川有乂閲。 同第二編文政七年、熊谷愼淳著、瀧川有乂閲。 同第三編文政七年、瀧川有乂著。 同第四編文政八年門人宇野定根著、文政九年門人竹村則直校、文政十年瀧川有乂閲。 同第五編文政九年瀧川有乂著、文政十二年北村儀直・宇野定根校。 同第六編文政九年瀧川有乂著。 同第七編文政九年瀧川有乂著、門人北村儀直校。 同第八編文政九年瀧川有乂著、文政十三年門人萩原定根・寺尾克灼・野村正忠校。 同第九編文政十年瀧川有乂著。 同第十編文政十年宇野政看・竹村則直・中村重行・吉倉祐之著、近藤道兌校、文政十一年宇野定根閲。 同第十一編年不詳瀧川有乂著、北村儀直・宇野定根校。 同第十二編天保元年中西重行・伊藤保信著、天保二年出口申之校、瀧川有乂閲。 同第十三編天保二年瀧川有乂著、宇野定根・竹村則直校。 同第十四編天保二年瀧川有乂著、萩原定根校。 同第十五編天保六年瀧川有乂著、中西信好・川崎克灼・井上正忠校。 同第十六編天保十一年太田貞孝・志賀軌正・坂井弘・安蓮安之著。 同第十七編年不詳瀧川有乂著。 同第十八編年不詳三好質直著。