向井元升、字は以順、肥前の儒醫なり。萬治元年京師に入りて僦居す。藩の老臣前田孝貞、綱紀の飮食調理の參考に供するが爲め一書を編述せしむ。元升即ち東垣の食物本草を經となし、時珍の綱目を緯となし、倭名は倭名鈔に則り、林氏の多識篇を以て助け、自説を加へて庖厨備用倭名本草十三卷を成し。寛文十二年に至りて功を竣ふ。 稻彰信、一諱は宣義、通稱は正助、若水又は白雲道人と號し、後若水を以て通稱とす。本姓稻生氏。宣義に至つて稻氏と改む。その彰信の諱あることは、彼が前田綱紀に上れる書に稻若水彰信と署名せるを以て知るべし。明暦元年江戸に生まる。父を恒軒といひ、儒醫を以て宮津藩主永井尚征に仕へ、經をその藩學明善堂に講ず。宣義十一歳にして大坂に赴き、醫を古林見宜に學ぶ。翌年恒軒致仕して宣義祿を襲ぎしも、尚見宜の門に止ること六年。既にして京に往き、經義を伊藤仁齋に受け、業成りて宮津に歸り、尚征の子尚長の侍讀に任じ、明善堂の教授を兼ぬ。然るに延寶八年將軍家綱薨じて法會を増上寺に修するに當り、その奉行たりし尚長は同僚内藤忠勝の爲に斬られ、遂に封を除かれしを以て、宣義も亦出でゝ京師に寓し、帷を垂れて諸生に教授せり。宣義一日皇明經世文編を繙きしに、書中日本を論じて、その國藥物を缺き一に中華の供給によるといふを見、慨然として本草の學を究め、以て利用厚生の道を開かんとするの志あり。爾後研鑚多年にして大に發明する所あり、名聲漸く著る。是に於いて紀・水二侯宣義を聘せんとせしも應ぜず、啻り加賀侯前田綱紀の士を愛し學を好むこと甚だしきを知りて欣慕措かず。以爲く、侯の封境の大にして資財の豐富なる、能く我が志望を達せしむるを得んと。乃ち木下順庵を介して仕を綱紀に求め、元祿六年金澤に來遊す。事侯の聽く所となり、遂に儒員に加へ歳俸二百俵を與へらる。翌七年十月宣義又若年寄多賀直方に就きて、侯の援資により食物傳信纂を編せんことを請ふ。その目的動植物中食物とすべきものゝみを類集解説せんとするなり。直方乃ち之を綱紀に稟請せしに、綱紀は之を許して編述に要する所の費一切を與へんことを約せり。宣義大に喜び、拮据勵精一年を經、その若干卷を録して之を上り、因りて侯の賞する所となる。是より先、綱紀李時珍の本草綱目を見、頗る慊らずとせしが、宜義の食物傳信纂を閲するに及びて、大にその博識に感ずる所あり。遂に宣義をして庶物類纂を編せしめて、以て本草綱目の遺漏を補ひ、一は世を益すると共に一は彼の素志を大成せしめんと欲し、命じて京師に還りてその資料を蒐集せしめき。かくて宣義の藩を辭せしは、元祿八年七月に在りしが、益黽勉努力し、十年三月より庶物類纂の稿を起し、十二年四月に至りて先づ麟介羽三類十七册成りしかば、復金澤に來りて之を呈せり。この後宣義は連年成る所を呈し、綱紀も亦秘庫の藏書を見るを允し、優遇至らざる所なかりき。正徳元年朝鮮の信使李東郭等來朝す。宣義乃ち往きて之を訪ひ、互に鳥獸草木の事を論じ、尋いで庶物類纂の序を彼に請はんと欲したりしが、先づ綱紀の意を知るの必要ありとなし、侍臣大野木舍人を介してその指揮を求む。綱紀因りて書を舍人に與へ、庶物類纂の著が頗る有益にして、他日之を刊行せざるべからざるを以て、宣義の言ふが如く韓人の序を得るの可なることを答へりき。宣義報を得て大に喜び、東郭の歸路を要して之を需めしに、東郭亦之を快諾せり。