加賀藩の本草學はこゝに至りて大に衰ふ。後羽咋郡町居村の人に村松標左衞門あり。諱は紀風。尚志軒と號す。京都に赴きて小野蘭山の門に入り、本草學を修む。曾て藩の老臣村井氏に仕へ、關東に赴きて朝鮮人參の栽培法を傳へ、長崎に至りて甘蔗の植栽を研究し、又紀州に遊びて蜂蜜の製法を明らかにせり。天保十二年歿す、享年七十九。著す所大和本草大意・救荒本草啓蒙等あり。その腊葉帖二十一册は現に石川縣物産陳列所に藏せらる。 叙上の外、大聖寺藩の人に樫田玄覺あり。玄覺諱は命平、東巖と號す。父橋本一閑、初め小境氏に養はれたる時玄覺を生めり。是を以て玄覺は幼名を小境萬太夫といひしが、後に藩醫樫田道覺の女壻となる。玄覺聰明強記、二十五歳にして京師に遊び、醫經七部の書を堀元厚に、本草學を松岡玄達及び津島常之進に學ぶ。是を以て大聖寺藩に本草の學あること玄覺に初り、大聖寺藩中に本草の學を究むるもの皆玄覺の門より出づといふ。玄覺又陰陽運氣の術に精しく、詩歌俳句を能くせり。資性謙恭篤實、世利に淡泊にして救濟を志とす。玄覺安永六年十月藩命を奉じて江戸に赴き、七年七月病んで國に歸らんとせしが、途越後長濱に至りて歿せり。享年六十四。著す所本草秘録等あり。玄覺に七男三女ありて、その第七子を樫田北岸とし、季子は即ち太田錦城なり。 加賀藩の醫家中古方を宗としたるものにして、その術の精良を以て名を後世に傳へたるもの、殆ど之を知ること能はず。唯金澤の産にして、外に出でゝ聲譽を博せるものに荻野元凱あるを見るのみ。元凱字は子原、左仲と稱し台州と號す。初め越前府中の名醫奧村良筑に就きて學び、後京都に遊び、研鑚多年、遂に呉有性の書を得て大に喜び、治法概ね之に從ふ。元凱朝廷に仕へ、寛政の初、皇子の脈を候し典藥大允に拜す。是より先御醫皆僧官を以て任ぜられしが、此の命下るに及びて時人之を榮とせり。九年幕府元凱を江戸に召す。將軍家齊謁を命じて瘟疫論を躋壽館に講ぜしむ。時に目黒尚忠助教たり。膜原の説に至りて難詰する所あり。元凱乃ち議論合はざるを以て辭して歸り、明年再び皇子の疾に侍し、功を以て尚藥に補し、河内守に任ぜられ、遠近の諸侯延きて治を受くるもの多かりき。文化三年四月二十日歿する時、年七十。著す所、吐法編・刺絡編・麻疹編・瘟疫余論・台州園隨筆等あり。その吐法は之を良筑より得、刺絡は蘭法に倣ひたるなり。