加賀藩の士にして蘭書に注意したるは、夙く寛政の頃に在ること、現に存する阿蘭陀繪によりて之を推知すべし。この繪は蘭書を模寫せるものにして、疊紙に『阿蘭陀畫寫六枚、寛政三辛亥仲夏念五烏、畫四如軒寫之、書山口爲範摹之。』と記さる。本書は元來國立動物園を意味するDe Vorstelijke Warande Der Dieren.と題し、千六百十七年和蘭詩人Joost van den Vondelの著したる寓話集とし、こゝに挿入したる驢馬の圖は、その挿畫百二十五枚中の第百十六枚に當るものなり。この畫の原版は、Bruges市に住める銅版彫刻家Marcus Gerartsの製作に係り、VondelはAmsterdam出版業者の需に應じ、その圖に相當する小話を與へたるものなりといはる。而して山口爲範の模寫する所、往々にして字形を誤るものあるを以て、彼は蘭學を解せし人にはあらざるべく、畫を模したる矢田四如軒と共に、その書の稀覯なるを喜びたる好奇心に出でしものにして、之を以て當時已に加賀藩に蘭學ありしことを證するものにはあらざるなり。 模寫蘭書男爵前田直行氏藏 模寫蘭書 次いで文化五年前田齊廣、前侯治脩の病を診せしめんが爲、宇田川玄眞を徴す。玄眞は作州津山侯に仕へて江戸に住したる蘭法醫にして、蘭法醫術の我が藩に試みられたること實にこゝに起る。玄眞この年十二月八日金澤に來り、堤町の旅館に泊す。隨ふ所門人藤井方亭を初とし、若黨・藥籠持・長刀持・挾箱持・陸尺に至るまで凡そ十人を算す。玄眞治脩の病を診し、翌六年二月一たび津山に歸り、次いで江戸に赴き、同年九月再び金澤に來るや、亦方亭を伴ひたりき。齊廣固より蘭法醫を祿するの志あり。而してその意玄眞の來仕せんことを欲したりしといへども、彼が既に津山侯の廩米を食むを以て果すこと能はず。遂に玄眞の請を容れ、方亭及び吉田長淑二人をして代り仕へしめたりき。藩の制、藩侯に藥餌を進むるとき、必ず一人をして之を主り、一人をして之を監せしめしが、從來の國手未だ蘭法を辨ずるものなきを以て、同時に二人を祿したりしなり。 文化五年八月津山御供中(宇田川玄眞)、松平加賀守殿御隱居肥前守殿(治脩)御病氣に付診察御頼相成度旨、御國(津山)許へ申來候に付、加州金澤へ罷越、宰相殿(治脩)御療治も仕、御快方に付翌年[文化六年]二月又津山へ歸着仕候。是年五月、江戸御供に而歸着仕候。同年八月宰相殿又々御不例に付再御頼に相成、金澤へ罷越、翌年(丈化七年)二月江戸へ歸着仕候。 前年加州より銀百五十枚・加賀絹二十反、御隱居より銀五十枚別に金百兩。是年は銀二百放・金百兩。御隱居より八丈三反・銀三十枚。此時藤井方亭・吉田長淑兩人、加州へ三十人扶持にて被召出。長淑は義弟と致し、方亭は門人なり。 〔宇田川家譜〕