かくて加賀藩は二人の蘭法醫を有するに至りたりといへども、是等は素より江戸在住の臣屬たりしが故に、加賀藩の醫學の發展に關しては直接影響せし所殆どこれなきが如し。然りといへども藩の漢法醫中、江戸に於いて蘭法の説を聞き、その大體に通ぜしものなきにあらざりしことは、之を齊廣が老臣前田直時に與へたる書簡によりて見るべし。直時は素より齊廣の重用する所たりしが、久しく痔疾を患へしかば、文政元年齊廣書を與へて、漢法醫術の排斥すべく、之に反して蘭法の信用すべき理由をいひ、藩醫篁齋・元哲等が江戸に於いて傍ら蘭法を研究する所ありしが故に、彼等をして診療せしむるの可なるべきを諭せり。是に因りて觀れば、齊廣が蘭法醫術を鼓吹したるの功績甚だ大なりといふべく、之に加ふるに吉田長淑・藤井方亭二人の蘭書飜譯の業を助けんが爲、特に廩米を増賜して後顧の憂を除きたる如きは、往時綱紀が稻宣義の研究費を提供したると共に、一大美擧として稱揚せざるべからざるなり。