當時隨庵杯は、學は相應之躰に候得共、生質不才に而醫術療治其働き薄く、其上中華而已之醫業にて、五行之道理に而實理之論無之事に候。當時江戸表にても追々蘭之醫術開け、窮理實理之論にて、人體内影[景]之委敷義は中々難盡筆紙事に候。夫故療治方甚深切之手段も有之、多血之憂有之義杯は、中華流の醫は一圓辨へ不申事に候。當時は篁齋・元哲等は江戸表にて毎度種々致僉議、蘭の醫術も過半致會得罷在候。此兩人杯え僉議有之、全き療治に被取懸候はゞ畢竟之所必可宜与存候。 〔前田直行男所藏文書〕 蘭法醫にして我が金澤に常住するものあるに至りたるは、弘化中黒川良安の侍醫となりたるを以て始とすべし。良安は越中の産、曾て長崎に遊び、醫術を獨人ジーボルトに學びたるものなり。良安の名聲噴々として擧るや、年少の醫生にして雄志を抱き、彼に倣ひて身を立てんと欲するもの多かりき。時に良安と同じくジーボルトの門より出でたる緒方洪庵は、大坂に在りて適塾を開きたりしが、天保中大聖寺の人渡邊知行ここに學びて塾頭となり、知行に次ぎて金澤の人津田淳三亦同じく塾頭となる。二人の國に就くや、知行は大聖寺藩醫となり、淳三は加賀藩醫に任ぜられ、共に耆婆扁鵲を以て稱せらる。降りて嘉永中に金澤の人太田美農里あり、安政中に小松の人田中信吾あり。皆適塾に入りて錚々の名を得たり。是より後良安を以て耆宿とし、淳三・美農里・信吾の徒之を圍繞して、醫界に新室氣を醞釀せしめしかば、草根木皮を以て生命とするもの漸くその影を潜むるに至れり。而して良安は廢藩以前に活動し、淳三等は置縣以後に翺翔す。今これ等蘭法醫の略傳を掲ぐ。