津田淳三は父を長屋權作といひ、世々加賀藩の老臣横山氏に仕へき。淳三文政七年を以て生まれ、幼名を作次郎といひしが、天保十年出でゝ津田氏を嗣げり。淳三資性豪宕、敢へて人に屈せず。是の年脱走して京師に赴き、儒家の僕となりて苦學し、年二十五にして大坂に移り、緒方洪庵の門に在ること三年にして中國・西國に遊べり。偶渡邊知行緒方氏の塾頭を辭して國に歸る。是に於いて洪庵は淳三を招きて塾頭たらしめしが、幾くもなくその業大に進みしを以て又家に還れり。然るに淳三の家は僅かに五人扶持を受くるに過ぎずして、赤貧眞に洗ふが如く、治を請ふものあるも敝衣門を出づる能はざりしかば、常に夜間を以て回診に從ひたりき。既にして名聲漸く顯れ、加賀侯の侍醫に聘せられて二十人扶持を賜ひ、慶應三年黒川良安に代りて卯辰山養生所頭取となりて、病者を治療し生徒に教授し、戊辰の役長岡に赴きて醫務に參し、明治三年金澤醫學館の教師となれり。五年四月醫學館の閉鎖するや、淳三は同志と謀り、私費を以て之を繼續し、八年石川縣立金澤病院となるに及び、その主務醫となりしが、十年老を以て辭し、十二年十月病みて歿せり。年五十六。著す所脉論その他飜譯數種あり。 黒川良安肖像金澤市藤本住吉氏藏・津田淳三肖像江沼郡大聖寺町稻坂謙吉氏藏 津田淳三肖像