太田美農里、諱は眞章、幼名莊藏、次いで良策・登・美農里と改め、雪嶽と號す。天保二年金澤に生まる。父耕民醫を以て藩の老臣村井氏に仕へ、夙に和蘭の醫説を聞きてその精確に服し、遂に美農里を以て黒川良安に託せり。美農里時に年十五。次いで嘉永三年大坂に遊びて緒方洪庵に從學し、橋本左内・村田藏六・大鳥圭介と同窻たり、遂に推されて塾頭となる。同六年米艦來航の事あり、物情恟然たりしかば、美農里は意を決して江戸に赴き、蘭式兵學者手塚律藏の家に寓し、造船術と兵術とを學びしが、後脚疾を患へたるを以て國に歸り、專ら醫育と臨床とに從事せり。安政四年美農里藩命を受けて蘭書飜譯校正方となり、文久二年軍艦方御用を兼ね、慶應二年壯猶館醫學教授を兼ぬ。明治元年美農里の卯辰山養生所頭取に班するや、率先洋裝して醫界固陋の弊風を刷新せんことを期し、三年權少屬に任じ金澤醫學館教師となり、五年廢館の後同志と共に私費を以て醫學館の維持を計り、十年津田淳三の後を受けて金澤病院主務醫となり、十三年に至るまで勤續せり。後二十九年四月功を以て勅定の藍綬褒賞を賜ひ、四十二年齡七十九を以て易簀す。 田中信吾、諱は温、初め發次郎と稱し、後一庵・信吾と改め、球外と號す。天保八年小松に生まれ、儒湯淺木堂の次子にして、田中謙齋の嗣となれり。安政三年信吾大坂に上り、緒方洪庵の門に入りて蘭學と醫學とを修め、遂に推されてその塾頭となる。居ること七年、文久二年に至りて郷に歸り、翌年藩命を受けて軍艦發機丸の醫務を督す。次いで慶應元年八月醫學教師となり、壯猶館に於いて醫書の譯課を兼ぬ。信吾常に醫育の革新を以て念とし、先輩黒川良安等と共に屢當路に説くに病院設立の必要を以てせしかば、藩は遂に之を容れ、卯辰山に養生所を興し、醫生の養成と患者の診療とを開始せしが、信吾は明治元年太田美農里に代りてその頭取に任ぜられたりき。同年奧越の役あり、信吾監軍に從ひ醫務に服し、三年正月權少屬に任じ醫學館教師となる。これより後信吾兵部省より徴さるゝこと數次なりしも、固辭して赴かず。その醫育に熱心なりしが故なり。明治五年醫學館の廢せらるゝや、信吾は津田淳三・太田美農里と共に私費を以て之を繼續し、十三年美農里の後を受けて縣立金澤病院長となり、十七年十二月その職を辭するに及び、自ら私立尾山病院を經營せり。三十三年一月六十四歳を以て歿す。