伍堂卓爾、字は敬甫、諱は知則、石潭と號す。弘化元年四月金澤に生まれ、幼名を龜太郎といひしが、後晋格・春格・卓爾と改む。文久二年京都に赴き、醫を新宮涼庭に學び、三年江戸の種痘所に入りて蘭書を學び、慶應元年長崎に往き、三年その地の精得館に入り、蘭人醫學教師マンスフエルトの教を受け、爾後職を長崎病院に奉ぜり。明治二年三月卓爾藩命によりて歐洲に赴き、和蘭ユートレヒトに在りしが、その學ぶ所皆初等の普通學にして毫も藩用を爲すに足らざるを思ひ、九月旅裝を整へて歸國の途に上り、而してその滯歐中契約したる醫學教師スロイス、英學教師ウォード、鑛山教師デッケンは翌三年に至りて來藩せり。ウォード及びデッケンは卓爾が專斷を以て雇聘せるものとす。是より卓爾は金澤醫學館に教授し、病院に醫員たりしが、七年臺灣の役起りしとき初めて陸軍に出仕し、累進して陸軍二等軍醫正となる。大正七年八月五日歿す、享年八十四。 叙上の外、大聖寺藩より出でたるものには竹内玄同あり。玄同諱は正幹、西坡と號し、その長崎に遊びしは黒川良安よりも早く、所謂ジーボルト初期の塾外生十七人中の一なり。安政五年五月玄同江戸のお玉ヶ池に種痘所を開き、七月幕府に聘せられて奧醫師となり、法印に叙し渭川院と稱す。翌六年ジーボルト再び我が國に來り、文久元年七月江戸に上る。玄同等命を奉じて之を赤羽の異國人族館に迎接せり。十月幕府種痘所を收めてその直轄とし、西洋醫學所と名づけ、玄同亦教授中に列せしが、二年進められて伊東玄朴と共に取締に任ぜらる。明治十三年十一月十二日七十六歳を以て歿す。