渡邊知行も亦大聖寺藩の人なり。通稱卯三郎、北渚と號す。資性沈毅にして言語寡く、進止端正にして威容あり。槍術・馬術を能くし、傍ら詩賦を好む。知行初め金澤の黒川良安及び丸岡の醫橋本某に就きて蘭法醫學を學び、年十九にして大坂に赴き、緒方洪庵の門に在ること三年。更にその業大に進みたるを以て長崎に至り、諸家に出入すること一年にして、父の病に會ひ一たび郷に歸れり。既にして知行又大坂に出で、緒方氏の塾頭となりしが、後辭して家に歸らんとするや、洪庵は託するにその子某の教育を以てしたりき。安政四年父致仕したるを以て家を繼ぎ、命を受けて藩醫となりしが、慶應二年復藩に請ひて長崎に遊び、蘭醫ボルドウヰンに就きて研究し、明治元年九月大聖寺藩の洋學教師を命ぜられ、同四年金澤に往きて蘭醫スロイスに學べり。廢藩の後大聖寺の家に在りて刀圭を業とし、十數年にして歿す。 馬島健吉も亦大聖寺藩の人なり。父金庵夙に和蘭の醫法を唱へ、藩醫に擢でられ、士班に列せらる。健吉人となり剛毅活潑、安政六年大坂に遊び、緒方洪庵の門に入りて蘭學を學び、後金澤に移り、江戸に往き、慶應二年長崎に赴きて又醫學を研鑚す。明治元年健吉、東方眞平・渡邊知行の勸誘によりて和蘭に渡航せんとせしが、その資なかりしを以て藩に請ひて補助を得、終に諸外國を歴遊して刀圭の術を學び、傍ら語學を研究せり。四年健吉藩命によりて歸朝し、金澤に於ける醫學館教師蘭人スロイスの通辯係となり、醫學館教師を兼ぬ。然るに五年醫學館廢せられたるを以て、健吉等私費を以て之を維持し、後金澤病院の醫員となり、啓明學校の教師となり、又石川縣福井公立醫學所教授となり、福井病院長となりしが、十五年辭して郷里に自營し、明治四十三年七月歿せり、享年六十九。