加賀藩の祖前田利家は戰國の時に生まれて、軍陣に臨むこと素より尠からず。戰へば必ず勝ち、討てば必ず破る。その退軍の苦楚を甞めたるもの僅かに賤ヶ嶽の一戰ありしのみ。然れども利家の時未だ兵學と名づくべきものあらず。唯少時より死生の巷に出入して養ひ得たる勇氣と、先輩諸將が行軍布陣の實際を見聞したる經驗とに據る。而してその軍法を説くものあるに至りしは日翁を以て鼻祖とし、且つ此の如き理論の行はれたる時は既に實戰の終熄したる後なりしなり。 日翁、日應又は陽翁とも號す。楠流の兵法を傳へ、太平記理盡抄を講ぜり。葢し楠流の兵法なるものは赤松家の傳ふる所なりしが、後名和長俊之を學び、世を累ねて名和正三に至り、日應はその門下に出づといふ。寛永三年前將軍徳川秀忠・將軍家光と共に上洛し、前田利常も亦之に從ひて本國寺に舘せり。寺僧利常の無聊を慰めんが爲、法華法印日翁を薦めて太平記を讀ましめき。是より日翁は侯の知遇を得、金澤に來りて御咄衆に加へられ、祿三百石を賜ふ。利常日翁をして還俗せしめんとすれども可かず。遂に泉野寺町法蓮寺に寂し、法號を大運院權大僧都日翁大徳といはる。法蓮寺は元和元年日珪の開創せし所なるが、日翁の之に住持せしか若しくは僑居せしかは明らかならず。 日翁の學を傳へしもの多し。就中小原惣左衞門を以てその尤なるものとす。惣左衞門は晩年宗惠といひしものにして、屢前田光高に理盡抄を講じ、その子惣左衞門亦前田綱紀に之を傳へき。綱紀命じて理盡抄の口傳を外間に傳ふることなからしむ。是を以て爾後小原氏は、その素讀を教ふるも秘奧を闢かざるに至れりといふ。 松雲院樣には、二代目の小原惣左衞門、御前へ罷出度々口談、散木(サンギ)の樣成もの、山形の檬成もの、數多大匣の葢に入持出、備立・城構等の樣子を仕入御覽申候由、度々御意御座候。其以後御好に而御草案御出し被遊、重々口傳之趣並戰場之圖等別に書立、八册に編候而上之申候。唯今小原家に扣有之候。理盡抄口傳は大切之事候間、外傳受無用に可仕旨御眞翰を以被仰出、御意之外當時一向素讀は格別、口傳之儀傳受不仕候。 〔松雲公夜話〕