加賀藩に於いて、藩初以來用ひられたる刀槍弓銃以外、別に大炮を鑄造してその威力に頼らんとしたるは、高島秋帆が江戸に炮術教授を許可せられたる後數年に在りて、之が製造の任に當りたるを秋帆の門下より出でたる齋藤三九郎とし、而して三九郎をして能く手腕を揮はしめたるものは青山知次と長谷川猷との二人なりとす。 青山知次は通稱將監、淇水軒と號し、人持組に班して祿七千六百五十石を食み、職家老に至る。知次幼より文事に志し、書畫を能くせしが、文化以降心を海外の事に注ぎ、或は學者を保護し、或は器械を購ふが爲、豐富なる家産を傾けてその資を吝むことなかりき。時に藩士長谷川猷あり、時務に通じて經世の志あり。是を以て知次は猷の説を聞くを喜び、猷は知次の爲に參畫するを樂しめり。されば知次が天保末年齋藤三九郎を聘したるは猷の推薦により、弘化三年西洋の製に則りて大炮三門を鑄たるは三九郎の設計監督に係りたるなり。猷は素より我が國外憂の日に多くして危機の漸く迫るを歎ずるものなりしかば、今やこの精鋭の武器の成れるを喜び、炮身に鐫するに『未雨徹土。先霜戒氷。』の句を以てし、又文を作りて新兵器の必要を述べ、知次の功績を稱揚せり。三九郎は越中射水郡佛生寺村の産、江戸に名を顯したる劔客齋藤彌九郎の弟にして、高島秋帆に學びたる者なり。後藩の老臣横山隆章に仕へたりしが、故ありて禁錮の刑に處せられ、以て廢藩の時に及べり。 今玆弘化丙午の秋、老參政青水淇水軒君、西洋の新神火器大炮を造れり。其名をモルチール・ハンドモルチール・野戰炮といふ。各要務あり。この三箇の新神器の如きは、葢し未だ北陸七州これを權輿するものあらず。老參政これを始製す、實に此地の先鋒嚆矢と云べし。僕これに銘して、未雨徹土先霜戒氷と云ものは、君の高志その源あるを敬感するが爲なり。今や其眞志の起る所の因を記し、又其銘の基づく所の深意を略解し、人をして感發の道を開かんと欲す。凡そ人の常情に於る、誰かそれ義に向はざるものあらんや。然れども勇なるもの少く、義を見て能く爲すもの終に稀なり。特り老參政の如きは寛厚の長者にして、其眞義を見て果斷するの大勇あること又その比なし。僕昔時父に從て初見し、陪講すること今に至て五十三年の久しきに及びて、義行はれ言聞かる。恩遇一日の如し。昔時僕の壯なるや、北狄ヲロシヤなるもの來りて、皇國の東北界を窺ふと聞きて、窃かに國に報ぜんことを欲し、自ら地球を造て彼此の形勢を辨じ、火炮を錬習して此賊を豫防せんことを思ひ、その談屢參政君に議して此の君の深志あることを見る。近年又ヱゲレス等の海賊、やゝもすれば本邦に迫らんとするの機あり。然るに世人多くは本朝の地勢を知らずして謂らく、賊船の來る只崎陽・津輕若くは東海の浦賀に在るのみとし、火炮の術は我國に古傳の名秘ありて足れりとして、日新の妙藝あることを考へず。愚なるかな。夫れ本朝は東洋正帶中の一大島にして、四方八面皆それ連環の海濱に非ざるものなし。賊の來路最も廣しと云ふべし。今國家閑暇にして患なき者の如しと云へども、賊の狡猾なる何れの海濱に向て其虚を探り伺ざるの理有らんや。老懷中夜にこれを憶へば寢ることを得ず。起つて之れを訟へんことを欲すれども、微臣の愚忠達するに由なし。徒に感慨するのみ。頃者聞く、西洋の火炮や累年戰國に長じて新眞の妙藝殊に開け、崎陽の高島秋帆その妙秘を傳へ得て、西國の諸侯は皆これに服して專ら之を主用す。中にも肥前侯は明敏にして大に之を悦び、我が天正・文祿の鋒を洗ひ出さんと稱して、此火器を造製せること數百に及べりとなん。實に然らばそれ賊は必ず西國を避て他境に入らんか、其災量るべからざるの害を生ぜんことを懼る。又此に天なる哉、天保の末年我邦の人齋藤三九郎なる者ありて、此全傳を得て國に歸る。僕雀躍して之を青山老參政に進む。此れ固より參政の宿志に吻合せるが故に、斷然として悦で之を臣とし、果然として費に吝ならず。其重臣徳田・佐雙・藤村・河野・松坂の五人に命じて造炮の工を督せしむ。三九郎の傳へたる、自ら其火器を造り、其火藥を製し、其火炮を放つ、此の三術を兼ね其藝備れりと云べし。此に今年孟秋下旬其の工初て就る。僕大に悦で謂らく、今老參政君高年七十に過て其盛擧斯の如きは、實に此れ淇澳の緑竹猗々たる徳風あり、果して有斐の君子衞武に比すべしとし、敬嘆の餘り君の高志を畫き出して、君の眞面目を表し此銘を作り、之を炮上に刻して永く其孫子に貽り、君の精意を示し後人を勵して不言の教を不朽に垂んとす。 〔長谷川源左衞門筆記〕