青山知次は亦長谷川猷の紹介によりて黒川良安を知り、次いで之を藩醫たらしめき。良安は蘭書を解したるを以て、西洋兵學を知らんと欲するもの亦之に就きて學ぶもの多く、河野通義・加藤九八郎等一時皆その門に集れり。而して知次と猷との二人は、かくの如く相頼り相助け、以て藩の武備を更張せんことを期したりしが、知次は嘉永元年に逝き、猷は翌二年に歿したりき。 かくて西洋新武器の精鋭なること漸く認めらるゝに至りたると共に、一面外交の警報屢傳はりしかば、藩は在來の異風と稱して鳥銃を武器としたりし足輕以外、嘉永六年別に西洋流火術方なるものを置きて軍備を充實し、更に翌安政元年その教育機關として壯猶館を創設し、銃炮の操法を藩士の子弟に傳習せしむるの傍ら、西洋兵書を研究するが爲に飜繹及び校正方を置き、叉西洋語學の普及を計るが爲に教授方を置けり。壯猶館は大橋成之の畫策したる所にして、最初の棟取も亦成之自ら之に當りしなり。然れども成之及び河野通義・加藤九八郎等は、軍に先進の説に聞きて銃炮火藥若しくは炮臺築造に關する一般知識を有するに止り、自ら蟹行の書を讀み鴃舌の語を解し得たるにあらず。是を以て壯猶館に於ける飜譯方又は教授方は、凡べて蘭法醫の力を假らざるべからざりき。黒川良安が同館の創立事務に參與したる後飜譯方となり、後文久三年軍艦方御用を命ぜられたる、津田淳三が軍器取調係に加ふるに飜譯方及び教授方となり、次いで藩命によりてセバストポル戰記を譯したるが如き、或は歩兵操典の飜譯が良安の門人にして藩の老臣長氏に仕へたる明石昭齋の努力に成れるが如き、皆この間の事情を語るものにして、醫師が一般科學の進歩に多大の功績ありたると共に、兵學の發達にも亦最も重要なる地位にありしことを忘るべからざるなり。前記の外壯猶館の教師には、藩外より聘せられたるものに佐野鼎あり。藩士に鹿田文平あり、安達幸之助あり。文平・幸之助二人に學びて飜譯方となりたるものに大屋愷敆あり。是等は皆藩末の軍政に參與し、兵學の研究に貢献せしこと少からざるものとす。今その略傳を掲ぐ。 安政二年金澤泉野調練圖金澤市岸秀實氏藏 金澤泉野調練圖 安政二年金澤泉野調練圖金澤市岸秀實氏藏 金澤泉野調練圖