佐野鼎、諱は〓、駿河の郷士なり。初め江戸に出でゝ下曾根金三郎に學び、その塾頭となりて蘭式銃炮の製法と操法とに達す。壯猶館の起るや、安政元年十一月加賀藩之を聘して士列に班せしめ、祿百五十石を與へ、西洋炮術師範方棟取役を命ず。既にして萬延元年幕府の初めて使節を米國に遣はしゝ時、鼎は請ひて之に從ひ、文久元年九月歸りて再び藩に仕へ、廢藩の後兵部省に奉職して造兵の事に與る。 大屋愷敆、本姓は石澤、通稱武一郎、曉山又は岸舟と號し、天保十年八月金澤に生まる。愷敆安政元年京都に遊學し、五年國に歸るの後安達幸之助及び鹿田文平に學ぶ。是を以て慶應元年十一月遂に壯猶館飜譯方に任ぜられ、二年二月石川郡寺中及び畝田炮臺築造の事に當り、七月大小炮製造所繪圖方を兼務し、明治元年六月兵器製造所調理役となり、二年十一月鑄炮局承事に聽じ、三年十一月學校掛となりて畫策する所甚だ多かりき。置縣以後、愷敆多く學事に關係し、萬國名數記・西洋各國歴譜・英和僻典・府縣名數教艸・萬國名數教艸・金澤名數・星學初歩・日本射號圖・本朝國審・皇統小史・日本地理學初歩・加賀地誌・能登地誌・越中地誌等の著あり。明治三十四年六月歿す、享年六十三。