この時代に於ける著名の眞言僧中、加賀・能登に關係あるもの左の如し。 頼玄は能登の産なり。初め紀伊の根來寺に至り、妙昔院玄譽に師事して、密教の奧儀を受け、更に興福・東大諸寺に赴きて性相の學を究め、最も因明に通ず。頼玄、永祿十年玄譽の付囑を受けて妙音院を董し、六大法身の講席を張れり。天正十二年八月寂す、年七十九。 北之坊は羽咋郡西増穗村なる大福寺中興の祖なり。清廉高潔にして學徳共に高く、兼て陰陽推算の術に長じ、天變地異吉凶禍福を豫言すること、之を掌に指すが如くなりしを以て、人呼びて天狗和尚と言へり。前田利家屢北之坊を召せども應ぜず、遂に相神村の農藤右衞門を介して之を見るを得たり。爾後利家の歸依すること大に厚く、その出陣毎に必ず北之坊に命じて祈祷せしめき。北之坊亦侯の知遇に感じ、利家の身邊に異状あるを知るときは必ず侍使を發して之を報ぜりといふ。 空照は金澤波着寺の信なり。晩年石動山大宮坊に住持して、闔山の別當職たり。その傳漢學の條に出す。 臨濟宗に在りては、河北郡に暦應中恭應運良の開創せる瑞應山傳燈寺ありて、頭寺の地位を占め、寺領を給せられたりしが、之に屬するもの僅かに九ヶ寺に過ぎず。明僧高泉の我が國に渡來するや、宇治の黄檗山萬福寺に在り。寛文十二年藩主前田綱紀、之を請じて明法山献珠寺に居らしむること一年餘。偶隱元示寂せしを以て、高泉は一たび宇治に歸りしが、延寶二年再び献珠寺に來り、遂にその中興開山となる。後元祿七年三月に至るまで、高泉の錫を金澤に挂くること前後二十一年に及ぶ。葢し献珠寺は初め臨濟なりしが、寛文十年月坡のこゝに住するに及び改めて曹洞となし、高泉の中興となるや黄檗に歸し、後更に臨濟に復して今に及べるなり。その他臨濟の諸寺、藩治二百八十有餘年の間未だ曾て花を開き芳を發せしを聞かず。名僧耆宿亦殆どこれあることなく、唯僅かに別宗祖縁が外に在りて名を知られし外、千岳宗仭・蘆隱普門の徒の、彫蟲の餘技を以て名聲を擧げたるあるのみ。