祖縁、字は別宗、號は頤神、金澤の士佐々木定之の子なり。相國寺覺雲の法を嗣ぎ、景徳・眞如二寺を經て相國に主となり、紫衣の恩賜を拜し、後南禪寺に轉ぜり。祖縁又詩文の技に達し、前田綱紀の珍籍を天下に求めし時、爲に盡力する所少からざりき。示寂の年紀詳かならず。 次に曹洞宗に於いては、能登に諸嶽山總持寺あり。越本山永平寺と並びて能本山と稱せられ、洞門の末院十中の八九を擁して勢力の強大を恃める外、護國山寶圓寺・金龍山天徳院の頭寺として寺領を有し、各一方に雄視するあり。而して羽咋郡の古刹永光寺は、金澤の淨住寺・石川郡の大乘寺と共に、皆草創の由來頗る赫々たるものあるに拘らず、寶圓寺が藩祖前田利家の歸依したる大透圭徐の開山たると、天徳院が三世利常夫人の菩提所たるの理由により、皆その配下に屈服せざるを得ざりき。然りといへども流石に永光寺は瑩山紹瑾の遺跡たるを以て、畠山氏の菩提所たりし鹿島郡の靈泉寺、利家の塋域を守護する石川郡の桃雲寺、圭徐の創立したる鳳至郡の蓮江寺等と共に、名藍として幾分の寺領を有せり。凡そ曹洞宗に屬する寺院の數、總持寺の山内に在るもの二十七ヶ寺、寶圓・天徳二寺の配下に屬するもの百十八ヶ寺を算し、別に法燈派と稱する越中國泰寺を本山と仰ぐもの藩内に九ヶ寺を存せり。 寶圓寺は舊と越前國高瀬に在りしものにして、前田利家の府中に治せし時、こゝに嚴慈の靈牌を安置し、忌辰には必ず詣でゝ冥福を祈りたりき。時に寺僧に大透圭徐あり、利家屢圭徐に參禪問法す。一日利家夢に自ら白鳥となり、北方に向かひて翺翔せり。利家之を圭徐に告げて吉凶を知らんと欲し、駕を命じて高瀬に赴きしに、途にして圭徐の利家を訪はんが爲來るに會せり。利家具に夢中の状を語る。圭徐驚きて曰く、衲も亦侯の白鳥となりて北に飛ぶを夢みたり。是を以て之を侯に告げんが爲に來りしなり。これ堂侯の久しからずして封を轉じ、大國を治するの奇瑞ならずや。他日この事若し實現せば、願はくは衲に命じて領内一宗の惣録たらしめよと。利家之を諾す。是を以て利家が能登の所口に治するや、則ち郊外に寶圓寺を創め、圭徐を招きて之に居らしめき。後に長齡寺といへるもの是なり。次いで同十一年金澤に移るに及び、また寶圓寺を建てゝ圭徐を開祖とせり。その寺地一萬一千六百坪に亙り、供養米草高二百二十三石二斗五升を受け、前田氏最初の香華院たり。元和元年檢地の際寺領減じて二百十三石六斗となりしも、後藩は大坂の役に於ける戰死者を弔はんが爲別に祠堂銀を寄進し、士民に貸附利殖せしめたりしを以て、法輪食輪並びに輾轉の頗る自在なるものありき。降りて前田綱紀の時に至り、祖宗の爲に五廟を建てんと欲し、五十川剛伯を朱舜水に遣はして唐土の制を問はしめき。舜水屢辭せしも可かれざりしかば、乃ち古制を繹ね、之を本邦の機宜に稽へ、諸侯五廟圖説を作りて之を上れり。是に於いて綱紀は寶圓寺再建の志を決し、元祿四年自ら記したる大願十事の中に之を載するに至れり。寶圓寺は是より先寛文九年に修築せられしものにして、爾後僅かに二十二年を經たるに過ぎず、而して夙く改造の議ありしものは之を唐土の制に據らしめんと欲したるに因る。しかも當時別に瑞龍寺・天徳院及び如來寺改築の企ありて、瑞龍寺は利長の菩提所たり、天徳院は將軍秀忠の女なる利常夫人の菩提所たり、如來寺は將軍家光の養女にして綱紀の生母たりし清泰院の牌を置く所たるが故に、勢先づその工に從事せざるべからず。是を以て利家及び利常の靈牌を安置する寶圓寺は、遂に改築を實行し得ざりしものゝ如く、而して寛文九年の堂宇も亦明治元年祀融の災に罹り、今や昔日壯嚴の状亦見るべからざるに至れり。