天徳院は寶圓寺と同じく金澤の小立野に在り。元和八年三月前田利常の夫人逝去す。夫人は將軍秀忠の第二女なり。因りてこの地に葬り、翌九年大伽藍を傍に營み、夫人の法號によりて天徳院と名づけ、巨山泉滴を關東より請じてこゝに住せしめ、寺領五百石を附して供養を嚴修せしむ。この後夫人の遺骸は之を野田山に改葬せりといへども、尚前田氏の香華寺中首班に居りしのみならず、藩侯光高の墓所も亦こゝに營まれしを以て、法燈常に煌々たるものあり。次いで綱紀が黄檗の僧高泉を金澤に招くや、元祿初年之をして天徳院修築の事に當らしめき。葢し綱紀の父光高の五十年忌が元祿七年に當りたるを以て、期に先だちて唐土の制に倣ひたる祖廟を建築せんと欲したるが爲にして、亦綱紀の大願十事中の一たりしなり。高泉乃ち造制を案じ、堂宇を悉く檗樣たらしめ、元祿六年に至りて工を竣る。扁額楹聯の文字皆高泉の書する所なり。後七十五年を經て明和五年七月天徳院火を失し、山門以外の伽藍悉く烏有に歸したるを以て、當時の規模詳しく考ふべからず。唯僅かに法堂の額面に『菅氏大宗祠、支那國沙門高泉』と刻したるもの、その他二三を存するのみ。今存する堂宇は、同六年八月再建のものに係る。 月屆應鍾。橙黄桔緑。敬惟殿下位鎭三州。名高北斗。徳風簸四海。仁政被及兆民。凡在化中。孰不景仰。頃聞景駕歸自東都。興居戩穀。當遣使奉候。縁山川窵遠。莫果所懷。前承諭。題先王諸殿扁額並諸門聯輙命京匠。一々造成。悉合唐式。但不知愜鈞意否。窃惟殿下以文武治國。以仁孝導人。使擧國人咸登賢聖之域。其化之大無踰此耳。衲處林間。無日不爲殿下喜也。天氣漸寒。幸加珍攝。右上加州宰相公殿下。 黄檗山叟性潡和南 〔前田家文書〕