抑前田氏に在りては、第十三世齊泰・第十四世慶寧の薨去に至り、初めて神葬式に依れりといへども、利家以降齊廣に及ぶ間は皆曹洞宗に屬したるを以て、その位牌所又は墳塋は凡べて同宗の寺院に在り。隨ひて藩の之を遇すること極めて厚く、天徳院の五百石を領し、寶圓寺に二百餘石を寄進せられたるが如く、供養の豐饒なること他にその類を見ず。是を以て藩臣にして重職に在る者も亦悉く禪門に歸し、五萬石の本多氏が大乘寺に、三萬石の横山氏が松山寺に、一萬八千石の前田氏が玉龍寺に、一萬六千五百餘石の村井氏と一萬一千石の前田氏とが桃雲寺に、一萬七千石及び一萬二千石の奧村二家が永福寺に、一萬三千石の長氏が開禪寺に、一萬石の津田氏が廣誓寺に屬する檀徒たり、而して萬石以上の臣僚にして曹洞宗徒にあらざりしもの唯今枝氏あるのみなりし如きは、他藩に多くその例を見ざる状態にあらずや。之を以て堂塔に頽敗の患なく、桑門に食輪の澁滯を憂へず、身心を擧げて法と佛とに捧げ、教學の振興他宗と趣を異にしたるもの、固より當に然るべかりしなり。 加賀藩の曹洞宗が活氣頗る横溢せる他の一原因は、藩内能登にその大本山總持寺を有したりしに因る。思ふに總持寺と永平寺とは、元來共に高﨟耆宿に對して出世轉衣を朝廷に稟請するの慣習を有したりしなり。然るに明應以後、總持寺の門末にして永平寺に於いて出世の儀を擧げ、恣に紫衣・黄衣を着くるものあるに至りしかば、總持寺は永平寺の勢力を増大せんことを恐れ、天文九年之を停止すべき綸旨を降し給はんことを請ひて能くその目的を達したるのみならず、天正十五年大透圭徐の斡旋により前田利家の命を以てその堂宇を再興し、十七年更に總持寺が出世道場たることを認められたる綸旨を得たり。是より兩寺の間常に爭議の絶ゆることなかりしかば、家康の治を布くに及び、曹洞宗の寺院を二分して相頡頏せしむること恰も東西本願寺の如くならしめんとの政策に基づき、兩寺を共に出世道場たらしめ、當住賜紫の特典を享有すべきことを規定せり。是を以て總持寺諸法度は元和元年七月を以て發布せられ、翌八月には加賀藩も亦之が附則を作り、正保二年後光明天皇の綸旨によりて同じくその地位を保證せらるゝに至れり。かくの如く總持寺が、江戸幕府創立の際本山の一たる資格を享有せしは、素より家康の方寸によりて決したる所なりといへども、亦加賀の桃雲寺主にして家康の宗教顧問たりし泰山雲堯の與りて力ありしによるといはる。是より總持・永平の二寺は互角の勢を以て對峙したりしを以て、屢爭議を釀して幕府の公裁を仰ぐに至り、有司をしてその裁量に苦心せしめしこと亦尠からず。この時に際して總持寺の敗訴は即ち加賀藩の威信を傷つくる所以なりと解せられたるが故に、藩吏等或は幕府の當路に交渉し、或は資財を散じて彼等の歡心を求め、常に永平寺をして總持寺の後に瞠若たらしめたりき。されば總持寺が交通の不便極りなき能奧の僻陬に在りしに拘らず、能く勢力の大を致しゝ所以は、固より瑩山紹瑾・峨山紹碩等の宏才偉徳相繼ぎて之を董したるが爲なりといへども、特に藩治時代を通じて儼然たり得しもの、實に前田氏の威武常に之が後援をなしゝに因らずんばあらざるなり。