諸嶽山總持禪寺者、依爲日域曹洞出世第一之本寺、就當山住持職之事、任綸旨轉衣補任吟龍和尚者也。依公文状如斯。 安政五戊午五月六日妙高庵通幻在判 洞川庵 〔松山寺文書〕 ○ 總持寺住持職事、應勅請宜奉祈國家安全寶祚長久者。天氣如此。悉之以状。 安政六年五月十一日右中辨在判 月心寺吟龍和尚禪室 〔松山寺文書〕 總持寺と永平寺とは、また三衣に關する問題を惹起して、遂に幕府の公裁を求むるに至れり。この問題に就いては、永平寺に於いても固より主張する所あるべく、俄かに是非曲直を斷ずべからずといへども、今こゝに總持寺側の記録に徴して聊か述ぶる所あらんとす。抑永平寺の勢力は之を總持寺に比するときは、末派の寺院後者は二萬にして前者は三千に過ぎず、寺領寺産亦遠く及ばざりしに拘らず、權勢を張ること反りて甚だしかりしを以て、經濟の收支相償はざるものあり。是を以て僧職を附與するに當りて謝金の額を多からしめ、總持寺に在りては長老たるもの金一兩を納むれば足るに對し、永平寺は三兩を徴したりしを以て、益能本山に葵向するものゝ數を増加せり。されば永平寺は常に總持寺を貶してその勢力を奪はんと欲し、夙く天明・寛政の交に於いて寺主玄透より、總持寺配下の僧侶が環紐ある九條衣・七條衣並びに掛絡を用ふるを難じ、之を幕府に出訴せり。その趣旨に曰く、宗祖道元は未だ曾て環紐ある袈裟を着けたることなし。家康の菩提所たる三河國某寺に安置する道元の木像を見て之を知るべし。然るに總持寺の恣に之を用ふるは、道元の法孫より血脈を受けて宗規に昧きに因れり。自今永平寺の格に從ひ、古法に復すべき命を發せられんことを請ふと。幕府乃ち之を質さんが爲總持寺の役僧を召したりしに、金澤祇陀寺・總持寺内行善寺の住持等出府して辯解せり。加賀藩之を聞きて事態の甚だ容易ならざるを憂へ、幕府の寺社奉行に請ひて永平寺側の内情を穿鑿せしめしに、かの木像には固より環紐を刻したりしが、京師の佛師をして之を削除せしめたること發覺し、永平寺は爲に幕府の譴責を得たり。是より越本山は益宗内の信望を失ひしを以て、之が恢復を圖らんとするの念切なりしが、遂に安政年中に至り寺主の薩摩藩と親善なりしを憑み、老中阿部正弘・老女姊小路と相結托し、幕府をして何等總持寺の主張を徴することなく、直に同寺が從前環紐を用ひしめたるは宗法に背戻するの行爲たるを以て、自今都べて永平寺の格に遵ふべしとの命を下さしめたり。この際天徳院の住僧雲生洞門、深く永平寺と謀りて畫策する所ありしが、事發覺したるを以て塔頭小立庵に蟄居せしめ、その逃亡を防ぐが爲嚴に盜賊改方奉行に命じて監視せしめたりき。洞門は幾くもなく病歿したりしが、嘗て藩侯齊廣の側室榮操院の葬儀に導師たりしを以て、特に前罪を赦し、天徳院世代の中に列せしむるを許せり。