是より先、幕府が三衣問題に關する永平寺の主張を正當なりと認むるや、永平寺は之を天徳院に移牒し、而して天徳院より藩の寺社奉行に通告したりしかば、藩は直に大乘寺に命じてその觸下寺院に傳達するの手續を執らしめたり。是に於いて大乘寺は、深更藩の老臣長大隅守連弘の邸に至り、事情の頗る重大なる所以を説きしに、連弘も亦大に驚き、總持寺の永平寺に敗るゝは我が藩威の凌辱せらるゝに同じと解し、總持寺をして出府して反訴を提起せしめたりき。葢し永平寺の主張する所は、同寺が家康及び秀忠より賜はりたる判物の中に道元の家訓を守るべしとの語ありて、宗祖の清規は越本山にのみ連綿たりとするなり。而して幕府も亦永平寺の主張を諒としたるが故に、總持寺代たる行善寺をして承服せしめんと欲し、在江戸藩邸の聞番三浦次郎左衞門を介して行善寺に諭さしめたるも、行善寺は斷乎として之を拒絶せり。時に藩侯齊泰の夫人に屬するものに用人田中太左衞門・老女濱岡あり。夫人は將軍徳川家齊の女にして、太左衞門は先に幕府の奧右筆たり、濱岡も亦江戸城に仕へしものなるを以て、藩はこの二人に由りて大奧に運動し、この事件を加賀藩に好意を有する安藤信正一人の裁決とすることゝせしに、永平寺は周章して薩摩藩の援助を求め、而して薩摩藩が奔走の結果遂に信正をして兩全の策を執らざるべからざらしめたりき。是を以て安政五年、三衣は則ち永平・總持二寺各從來慣用する所に隨ふべきを令し、總持寺は直に之を末派に傳達せり。