叙上の如く總持寺が、不滿足ながらも全然永平寺の爲に壓倒せらるゝに至らざりしは、一に藩の助力によりしを以て、同年大に法要を營み、藩侯の武運長久を祈祷して感謝の意を表する所ありき。是に於いて翌安政六年、永平寺復幕府に出訴して曰く、三衣係爭の事未だ全く落着するに至らず。然るに總持寺は猥に公裁を僞りて之を末派に告げたり。專恣許すべからず、請ふ速かに之を質せと。或は曰く、去年幕府の公裁を與ふるや、永平寺に左袒する者訴訟の再起に便ならしむるが爲、故らに判決書を總持寺のみに下し、その永平寺に對するものは之を大老彦根侯の許に保留せり。葢し彦根侯の菩提寺は永平寺の末派なるに因る。是を以て永平寺は知らざる爲してこの訴訟を提起したるなりと。加賀藩乃ちまた總持寺の爲彦根藩に對して運動する所ありしに、その結果幕府は六月十四日を以て、現時國事多端、一宗門の爭議に干繋すべきの時にあらずとして、永平寺の訴訟を棄却せり。而も總持寺側に在りては、老中等の議によりて再び之を顛覆せらるべき虞あるを思ひ、安政五年の判決に對する確認を要求し、遂に兩寺の役僧は閣老松平宗秀の面前に至りて辯論せしが、宗秀は、兩寺の主張する所共に宗祖の家訓を維持せんとするにあるを以て、相互に和熟懇談して決すべく、敢へて幕府の公裁を煩すを許さずとして退廷を命じたりき。この年九月藩は、越中に在りては瑞龍寺住職に押隱居を、加賀に在りては棟岳寺に隱居蟄居を、希翁院・金剛寺に寺外隱居を、傳燈院・廣昌寺に逼塞を、能登に在りては永光寺に隱居蟄居を、洞光寺・萬福寺・蓮光寺に逼塞を命ぜり。これ等は皆永平寺に黨したるが爲にして、殊に永光寺は道元木像の環紐を削除したるに因るといはる。