この後幕府は、萬延元年二月七日、重ねて三衣が兩寺の志趣次第たるべきを命じ、同月九日覺書を下附して、曹洞宗の法衣は永平寺の主張するが如く環紐なき袈裟を用ふるを通則とすといへども、特に加賀・能登・越中に限り、出世上洛の場合の外、總持寺の固執する環紐あるものを用ふるを妨げずとせり。 越前國永平寺・關三ヶ寺・能登國惣持寺衣鉢之儀異論に付相定覺 一、曹洞一宗之衣鉢、古今區々にて一定不致、異論有之に付、已來一宗之僧侶環付の袈裟は相止、環無之袈裟に可相改候事。 一、總持寺を始、加賀・能登・越中三ヶ國に罷在同宗之寺院は、從來之趣を以何れの袈裟著用候共可爲志趣次第事。 一、總持寺輪番相勤候寺院、右輪番中は同寺志趣次第の三衣可相用候。併總持寺並加賀・能登・越中三ヶ國之寺院たり共、永平寺登山之節は環有之袈裟致著用間敷事。 一、一宗之轉衣僧綸旨頂戴として上京之節者、向後環無之七條衣以上相用可申候。雖然加賀・能登・越中三ヶ國之寺院においては、志趣次第之衣鉢可相用候事。 右之條々、今般詮議之上達老中聽相定候。向後永平寺・總持寺を初、一宗の僧俗相互に和融いたし、彌宗門興隆を可心懸候。依て爲後證各令名印判下置條、永く不可有異論者也。 安政七年庚申二月水左近將監印 松伊豆守印 松伯耆守印 松右京亮印 總持寺 〔穩樂齋隨意集〕