總持寺と永光寺とのその地位に就いて爭へることは、既に前に述べたるが如し。而して別に藩内にては、總持・永光・大乘三寺の間に法系に關する爭議ありて、反目常に絶ゆることなかりき。葢し總持寺は、素より後醍醐天皇の勅願寺なりと信ずるのみならず、慶長十五年前田利家の室芳春院が三門建立のことあり、元和元年また家康より法度を附與せられて、大に法威を張りたるが故に、決して他の諸寺に下るべきものにあらず。然るに永光寺の主張する所に據れば、總持寺は現に本山の地位を占むといへども、元來瑩山紹瑾の開創したるものとし、而して紹瑾は是より先既に永光寺を開き、示寂も亦永光寺に於いてしたるが故に、永光寺が總持寺の下に在るべき所以を見ずといへり。更に大乘寺の固執する所は、宗祖道元の永平寺を興すや、二世孤雲懷弉之に次ぎ、三世徹通義介又之に次ぐ。而して義介は則ち大乘寺を創め、瑩山紹瑾その第二世に住し、紹瑾の永光・總持二寺を興したるもの皆此後に在るが故に、大乘寺は當然此等の上に座せざるべからず。況や宗祖の將來せる洞家第一の法寶物たる一夜碧巖集・中華五山十刹之圖皆傳へて當寺に藏せられ、本源嫡傳の信符たるに於いてをやといふに在り。葢し大乘寺に於いて此の思想を抱けることの頗る古きことは、中興雜記に載せたる應永廿二年三月大乘寺より畠山氏の重臣遊佐美作入道に提出せる訴状の中にも、『日本越州永平寺者開山道元禪師、加州大乘寺者永平寺三代徹通和尚開闢也。能州永光寺者、大乘寺開山嫡子瑩山和尚開闢也。淨住・總持之二ヶ寺者、同瑩山和尚遺跡也。淨住寺者、根本瑩山和尚之悲母慧觀大姊開闢也。瑩山和尚遷化之後、兒孫改易慧觀大姊而勸請瑩山和尚。總彼二ヶ寺、混大乘寺不可態齊支證明鏡。』といへるによりて之を知るべし。かくの如く三寺の主張する所柄鑿相容れざりしを以て、藩は大乘寺と永光寺とが特に無本寺の格式を有するものたることを認めて、その衝突を緩和するの策を執りたりき。 覺 一、日本曹洞第一之本寺越前永平禪寺、開山道元和尚、二代懷弉和尚也。第二之本寺大乘護國禪寺、開山徹通義介和尚、二代瑩山和尚、三代明峰素哲也。瑩山和尚於能州永光寺・總持寺之兩寺開闢、彼兩寺共に當寺末寺、日本第三之本寺と申候。右之次第を以日本曹洞之諸寺院者、皆當寺之末派に而御座候。因玆宗門第一之法寶一夜碧巖集並中華五山十刹圖も當寺に納り、洞家本源嫡傳之信符と成り申候。一夜碧巖集者白山權現・道元和尚之兩筆、先年陽廣院(前田光高)樣御覽之節箱御寄進被遊候。五山十刹圖者道元和尚之自畫自書、右之二色共に于今所持仕候間、則拙僧封印仕、爲御覽上之申候。(下略) 丑ノ二月二日大乘寺卍山判 不破彦三殿 富田治部左衞門殿 〔石川郡野々市館氏文書〕