然るに延享三年關東三ヶ寺即ち總寧寺・龍穩寺・大中寺は、諸國の曹洞宗寺院に通達して、各その所屬の本寺を申告すべきことを命ぜり。是に於いて大乘寺と永光寺とは、共に五百年來無本寺たりしことを主張して、使僧を江戸に發したりといへども、遂に關東三ヶ寺の容るゝ所とならざりしかば、兩寺は已むを得ず藩に請ひ、幕府の寺社奉行にその意を致さんことを求め、藩は在江戸の聞番河地平左衞門をして秋元攝津守に交渉せしめしが、尚目的を貫徹すること能はざりき。因りて九月十七日平左衞門は、兩寺の使僧を招きて陳述を聽取し、古來の慣例に從ひて兩寺を無本寺たらしめんとの書状を改めて幕府の御用番に致しゝに、その却下する所となり、十月十日には關東三ヶ寺よりこの兩寺を何れかの本寺に隸屬せしむべく決したりとのことを使僧等に布達し、次いで翌四年大乘寺は越前永平寺の末院たり、永光寺は能登總持寺の配下たるべきを命ぜられき。 かくて大乘寺は、永平寺の酊下に屬したりといへども、尚その態度甚だ從順ならざりしを以て、常に永平寺の憎惡を免るゝこと能はざりき。享和元年大乘寺はその寺規を改めんとして、本寺に對する手續を閑却せり。永平寺乃ち之を以て、大乘寺が本末の關係を絶たんとするものなりと解し、先住愚禪・當住袷天・役僧聖順・孝道四入を喚問せしが、愚禪等之に應ぜず、僅かに末院祇陀寺の潜龍を代理たらしめて派遣せり。然るに潜龍は永平寺の意を迎へて、大乘寺が實に此の如き野心あることを告白せしかば、同年十月永平寺は加賀藩の寺社奉行に牒し、奉行の職權を以て愚禪等をして登山せしめんことを求めたりき。奉行は大乘寺に就きて調査したる結果、永平寺との衝突を避けしめんと欲し、袷天を退隱せしめ、愚禪を再住たらしめしが、永平寺は更に入院交代の儀の先例に違ふものあるを理由として許さず。藩乃ち翌二年關東三ヶ寺の居中調停を乞ひ、大乘寺の關係者をして悉く永平寺に昇りて謝意を表する所あらしめ、以て纔かに解決を告ぐることを得たり。