今藩政時代に於ける洞家の巨匠を掲げんに左の如し。 祐補、字は雲窓、能登酒井の人なり。永光寺に入りて下髮受戒し、承天寺に至りて虎溪正淳に參し、遂にその衣法を附せらる。是より祐補は屢名刹に遷り、晩年大乘寺を司りしが、天正四年四月を以て寂せり。 圭徐、字は大透、戸田氏、尾張の人。出家して越前寶圓寺に至り、直鷹正暾の席を嗣ぎ、總持寺に昇り、又龍泉寺に主となる。前田利家の能登を領するに及び、長齡寺を剏めて圭徐を迎へ、天正十一年金澤に移り、又圭徐を招きて護國山寶圓寺を興す。十五年圭徐利家に告げて總持寺の荒廢を復し、文祿三年寶圓寺の席を讓りて長齡寺に退き、慶長三年九月寂す、年七十四。 慧等、字は覺翁、尾張の人にして、加賀の玉龍寺に住せり。天正中前田對馬守長種聘して龍淵寺に主たらしむ。後金剛寺の同國に剏めらるゝや、檀越延きて慧等をその第一世と爲す。慶長十五年五月寂す。 徐芸、字は象山、越前の人なり。初め同國寶圓寺の大透圭徐に從ひてその席を繼ぎ、後總持寺に出世し、永澤・龍泉二寺に歴遷せしが、文祿元年鳳至郡輪島に蓮江寺を剏め、次いで利家の屈請する所となり、同三年圭徐の後を受けて加賀の寶圓寺に住す。慶長五年利長の高徳山桃雲寺を金澤の近郊に建つるや、徐芸その第一世に居り、同十五年利家夫人が總持寺の三門を造りしとき徐芸に請ひて説法せしめ、傍に芳春院を構へて彼を屈請せり。徐芸乃ち圭徐を以て開祖とし、自ら第二世に居る。後桃雲寺に退き、元和五年五月寂す。 繁應、字は量山、下野の人なり。越の太白寺に往き、廣山恕陽に投じてその印可を受け、永平寺に出世す。慶長十年寶圓寺に住し、元和八年三月寂す、年六十八。 恕陽、字は廣山、上野の人なり。丹後永澤寺、越前龍泉寺に歴住し、總持寺に出世す。慶長六年加賀の寶圓寺を領し、十年之を門下量山繁應に讓り、自ら利長に從うて越中富山に庵居し、十八年利長が高岡の郊外に利家及び織田信長・信忠の爲に廟を營み、之を法圓寺と號するに及び、恕陽之が開山となり、十九年利長の薨ぜし時その導師を勤め、元和九年正月十五日寂す。