泉滴、字は巨山、武藏の人なり。嫡宗田承に師事し、その寂後房州長安寺を領す。曾て徳川秀忠の招に應じて登城説法せしことあり。前田利常の金澤に金龍山天徳院を創むるに及び、泉滴を聘してその第二世に居らしむ。泉滴固辭せしも幕府の命によりて已むを得ず之に應ぜり。寛永十八年十月八十一歳を以て寂す。 雲堯、字は泰山、越前の守護朝倉氏の族なり。八歳にして同國寶圓寺に投じ、後能登の長齡寺に住し、總持寺に昇りて塔頭芳春院を司り、更に遷りて桃雲寺に居る。元和元年家康伏見に在り、諸宗の碩學を徴して顧問とせし時、雲堯亦之に與れり。時に家康將に永平寺を以て洞門の本寺と爲さんとせしかば、雲堯は書を上りてその先蹤に戻るを論ぜしに、家康遂に之を容れ、永平・總持を以て兩本寺と定めたりき。後加賀の寶圓寺に遷り、幾ならずして永澤寺に轉じ、總持寺を董せしが、寛永八年一閑院に退き、慶安元年正月示寂せり、年七十五。 徐天、字は關空、俗姓河合氏、加賀の人なり。初め寶圓寺の象山徐芸に就きて剃度し、次いで長齡寺の泰山雲堯に謁し、遂に印可を受けてその席を繼ぎ、尋いで總持寺に昇り、桃雲寺に遷る。寛永八年前田利常乞ひて寶圓寺に住せしむ。慶安三年正月元日七十七歳を以て寂す。 寅嘯、字は北巖、俗姓は原氏にして甲斐の人なり。總持寺に出世し、松門・信松・宗關諸寺に歴住し、晩年能登に雲光寺を剏めて逸老し、寛文二年十二月示寂せり。 雲英、宇は傑外といひ、俗姓を鈴木氏と稱す。能登輪島の人。初め邑の蓮江寺に投じて祀髮し、總持寺に出世し、加賀の桃雲寺に住し、慶安三年前田利常の屈請する所となりて、同國寶圓寺に住す。延寶二年二月示寂せり。