道印、字は鐵心、耆書の人なり。信濃の大昌寺・美濃の龍溪寺に住し、加賀の天徳院に移り、また等覺・桑山二寺を創す。晩年和泉に隱棲して蔭涼寺を開き、延寶八年正月廿八日八十八歳を以て寂す。天徳院に在りては道印を開山巨山泉滴に嗣ぎて前住と稱し、第二世に置かず。その何の故たるかを知らず。 愚穩、字は龍睡、南山老人と號す。加州の人。丱歳にして州の常松寺に薙髮し、遊方して諸所の哲匠に參じ、自負して崇先並びに龍門に出世す。既にして黄檗の隱元に從ひ、三年を經れども異言通ぜざるを以て所入なし、時に加賀の天徳院席を空しくし、乃ち愚穩に請うて第二世に居らしむ。後又京都に赴き、察禪師に謁せしに、察一見して獨榻を以て之を待ち、法を付するに先師の遺囑を以てせり。元祿元年二月晦日示寂。 虎白、字は月嘯、加賀の人なり。同國寶圓寺傑外の室中に上首たりしが、出でゝ總持寺を主り、遷りて大巖寺に居る。萬治三年寶圓寺に入りて頽廢を改め、經度甚だ力む。元祿三年八月示寂す。 宗胡、字は月舟、肥前の人なり。初め攝津の宅源寺に住し、長圓寺を經て加賀の大乘寺に移り、興禪・禪徳二院を創してその第一世に居る。宗胡深く宗風の衰微を嘆じて古規を恢復し、龍象を育するもの甚だ多し。延寶八年秋大乘寺を辭して京師に至り、補陀洛山禪定寺に居る。元祿九年正月寂す、年七十八。 道印、字は月坡、老臥佛と稱す。近江の人。初め竹龍遵和尚に依りて業を受け、後黄檗の木庵に參して禪を究む。寛文四年江州比良山獅子谷に棲遲し、七年關山琵琶苑に住す。十年前田綱紀の命によりて、加賀の献珠寺に入り、臨濟を改めて曹洞となし、次いで水戸の徳川光圀に聘せられて岱宗寺に居り、天和元年來りて暫く天徳院を司る。經遊するところ二十餘院、足跡天下に遍し。その忌辰は享保元年十月十三日に在り。