玄趾、字は慈鱗、即一と號す、俗姓中村氏。越前の人なり。諸國の叢林に歴遷し、後加賀の大乘寺に住して、大に曹洞の宗風を發揚せり。明和元年十月寂する時、年七十五。 奕堂、字は旃崖、無似子又は三界無頼と號す。尾州名古屋の人。安政四年加賀の天徳院に住し、明治元年永平・總持二寺の相爭ふに當り、旃崖力をその調停に盡くして功あり。同三年遂に大衆の爲に推されて總持寺獨住第一世に居り、弘濟慈徳禪師の號を賜ふ。同十二年東國に巡化して羽前の善寶寺に入り、八月を以て寂す、年七十五。 前田氏の初期に在りては、淨土宗も亦曹洞宗と共に、その崇敬を受くること厚かりき。されば利家の越前府中に移りしとき、尾州犬山に在りし法船寺念譽和尚は之に隨從し、その金澤に入りしときは、府中の光覺寺善等和尚之と行を共にせり。而して法船寺は利家の子利長と共に越中守山及び富山に移り、慶長四年利長の封を襲ぐに及び亦金澤に入る。第三世利常に至りては特に淨土門に歸依せしものゝ如く、その持佛とせし阿彌陀如來は法船寺に安置せられ、又京師清淨華院の休譽をして心蓮社を城下に興さしめき。かくてその勢力徐々として發展し、如來寺に寺領を與へて頭寺となし、末派三十五ヶ寺をして之に屬せしめき。如來寺はもと越中増山に在りしが、後金澤卯辰に移り、次いで徳川家光の養女にして前田光高の室たる清泰院の歿せしとき、老侯利常之を菩提寺に宛てゝ小立野に移し、伽藍を莊嚴にし寺祿を豐富ならしめたるなり。 寛永十二年淨土宗に一喝爭議のことあり。事甚だ輕微、特に之を擧ぐるに足らずといへども、偶以て平穩無事なる宗門内の惰眠を覺醒せしなるべしと思はる。此の年六月馬廻組に屬する士飯尾權右衞門の妻死したりしが、素より淨土宗徒なりしを以て、卯辰如來寺に於いてその葬儀を擧行せり。然るに夫權右衞門は禪宗の檀那なりしが故に、寶勝寺の千岳諷經の席に列りしが、この日如來寺の住持玄文引導し終りて、大聲一喝その松明を投じたりき。千岳之を見て大に怪しみ、後に權右衙門の家に至りし時語りて曰く、抑一喝は我が宗祖以來血脉相傳する所の秘法たるに、曩に玄文の之を唱へしもの、他の妙語を假りて得脱の功を爲さしめんと欲せしか。將た我が傍に在るを見て故らに模倣して揶揄せんとの意に出でしか。思ふに我知我見我愛我慢は佛の戒むる所なり。今玄文談義に長じて世人の推賞する所たるを恃み、興に乘じて專恣放埒の行あるもの、偏に法の邪魔といふべきなりと。既にして千岳の言玄文の聞く所となる。玄文大に怒りて曰く、千岳は賣僧なり。彼僅かに三體詩・江湖集・風月往來の類を解して、幼童の尊敬を受くるに過ぎず。曷ぞ衆生濟度の重大事を知るあらんやと。因りて八月彼岸會の法語に托して、日々千岳を誹謗罵倒せり。爾後二宗の檀徒等隙を生じて相諍論するものあるに至りしかば、千岳も亦默過すること能はず、屢使僧を派して書を與へ、互に辯難して是非を決せんごとを求め、又之を藩吏に謀れり。藩吏、この年利常・光高二侯が江戸城修築の爲に在府し、且つ宗論は幕府の禁ずる所たるのみならず、濟度利生を職とするものゝ爲すべき所にあらずとして之を許さゞりしかば、千岳は是に服して遂に爭はざりき。而も坊間には千岳が如來寺に至りて法問を試みんとすとの説盛に行はれしかば、如來寺にては談義僧の強辯なる者を集め、聖經を繙き祖師の言を引き、以て應戰の準備に忙殺せられたり。後時日を經て騷擾自ら鎭靜す。而して蘘に千岳と玄文との往復したる書は、好事者傳寫して一時玩賞せり。