元文五年淨土宗妙慶寺の後住問題に關して爭議あり。妙慶寺は常に宏徳の住する所なりしが、特に江州正法院より入りたる愍譽は、道學の聲名頗る高かりき。然るにこの年四月愍譽圓寂せしを以て、塔頭養壽院と寶珠院とはその遺言に從ひ、愍譽の門下にして現に關東に在りし喬純長老を迎へて後住たらしめんとせしが、檀頭松平外記彼等の意に從はず、先々住の徒弟にして江戸の傳通院に在りし卓印長老に書を與へて之を招けり。既にして卓印金澤に至りしに、豈計らんや後住の喬純に決したる後に在りき。卓印因りて養壽・寶珠二院を恨み、曾て外記より得たる書を添へて之を觸頭たる如來寺に出訴せり。是より兩黨相軋轢せしが、翌年に及び國老の裁斷により、喬純を佳職とし、兩塔頭の主僧を退隱せしめ、檀那中の一二に轉寺を命じたりき。因りて寶珠院は去りて洛に赴き、養壽院は白山比咩神社に近き手取川の安久濤淵に投じて死せり。