藩内淨土宗の緇徒にして、名を後世に遺しゝもの甚だ少く、その事蹟の一寺創立に關するもの僅かに數人を算し得るのみ。玄門寺の向譽玄門、松縁寺の近譽順應、極樂寺の殘譽梅翁、弘願院の頥譽梵無の如き即ち是なり。その他稍異彩あるもの、棋僧に快禪、畫信に縱譽心岩、念佛に本譽筍靈ありき。 筍靈、字は本譽、小松の人なり。金澤に至りて三光寺に投じ、十五歳にして江戸に出で、増上寺の業譽上人に從ひて鎭西流を傳ふ。後本國に歸り住すること一年、復出遊して京師嵯峨の平山に庵居し、次いで大和の光明寺に住すること四年、日課の念佛六萬聲、厲行すること頗る常輩に勝れり。承應元年三月四十歳を以て寂す。 心岩、縱譽と號す。加賀金澤に生まる。その先は小松の人なり。寛文十二年二十六歳にして金澤の淨安寺に入り、回譽上人に就きて度を受け、下總の大巖寺に學び、乘譽上人の法を嗣ぎ、貞享二年江戸の傳通院貞譽に師事せり。心岩金澤大圓寺の荒廢を再興せんと欲し、自ら佛像を畫きて之を諸人に頒ち、以て經營の資を募りしに、三年にして業を畢り、元祿二年落成の供養を修せり。後又江戸に出で、増上寺の心光院に住す。寶永元年幕命を受け、將軍綱吉の生母桂昌院の墓所に慧照院を建て、自ら發願して淨土三曼陀羅を圖せり。寶永三年八月六十歳を以て寂す。