凡そ加賀藩内に在りて時宗の法流を汲むもの、上記玉泉寺を除けば、越中高岡に淨土寺ありしのみ。是を以て藤澤清淨光寺の遊行上人が來錫するや、必ずこゝに淹留して布教するを例とせり。而してその事の文献に見えたるは、寛永五年に第三十五世法爾が淨禪寺に駐錫したるを初とし、寛文十一年には第四十二世南門來りて玉泉寺に居り、元祿元年十一月には第四十三世尊眞亦同寺に入れり。この時藩の待遇頗る慇懃、先づ舊例により使者を派して白銀五貫目と米百五十俵を贈り、翌年三月尊眞の去るに臨みまた物を贈りて敬意を表せしこと政鄰記に見えたり。その後相繼いで來錫せるものに、元祿十一年第四十六世尊證あり、正徳三年第四十九世一法あり、享保十三年第五十世快存あり、延享元年第五十一世賦存あり、明和九年第五十三世尊如あり、寛政五年第五十四世尊祐あり、文化十二年第五十五世一空等ありて、法會の式、藩の賜與一に前例に據れり。 元祿元年十一月十一日遊行上人來著。御使番和田牛之助を以大和柹・島海老被遣之。町奉行和田小右衞門を以白銀五貫目・米百五十俵被遣之。是如舊例。翌年三月四日御使番平田清左衞門を以卷物一折被遣、同八日御使番由比孫兵衞を以八講布廿疋・福野干瓢一箱被遣之。 〔政鄰記〕 一向宗は藩内に於いて最も勢力ある宗派なり。金澤の御山御坊が天正八年佐久間盛政の爲に陷れられたる後、果して如何の經過を取りしかは詳かならずといへども、恐らくは一時何れの地にも伽藍を有せざりしなるべし。然るに前田利家のこゝに封ぜらるゝに及び、寺地を御城後町に與へて坊舍を興造せしめしが、尋いで石川郡安江郷に一萬歩の地を寄進して之に移らしめき。後に西本願寺別院となれるもの即ち是にして、その移轉は恐らく後述東本願寺別院と同時にあるべし。かくて寺地は確定したりといへども坊舍尚假造に屬し、後本建築の成れるは延寶三年に在りしといふ。是よりその門前を西末寺町といひ、次に西御坊町と稱せしが、廢藩の後轉じて五寶町の文字を用ふるに至れり。而して利家・利長が與へたる禁制に、この寺を指して末寺といへるは聊か注意せざるべからず。何となれば、末寺は配下寺院の謂にして、本願寺自體の支坊を意味せざればなり。加賀に在りて本願寺の別院を末寺と稱すること既にこの時に初り、慣用して今に及べり。 禁制 本願寺末寺 一、當寺參下向之外、見物人いりこむ事。 一、普請道具竹木以下に付て非分申かくる事。 一、寺内並門前喧嘩口論狼籍事。 付、ひるね仕事。 右條々若違犯之輩有之候者、堅可處罪科者也。仍如件。 文祿三年文月日在判(利家) 〔遺編類纂〕 ○ 禁制 本願寺 末寺 一、當寺參下向之外見物人入籠事。 一、普請道具竹木以下に付而非分申懸事。 一、寺中並於門前喧嘩口論狼籍事。 付、晝寢仕る事。 一、於寺内給人家を買令居住事。 一、寺内有之者御堂之義不可馳走事。 右條々若違犯族有之者、速可處罪科者也。仍如件。 慶長五年三月十七日利長在判 〔徴古文書〕 ○ 今年(延寶三年)西本願寺之末寺造立。是より先は假屋也。 〔政鄰記〕