東本願寺が別院即ち末寺を金澤に建設せしは、慶長七年京都六條に於けるその本寺が分立したる後日尚淺く、加賀藩に在りては前田利常の治世の初期にして、利長の尚生存中に屬したりしが如し。葢し東本願寺の教如と利長との親交ありしことは、末寺設置の諒解を求むる上に於いて非常の利便ありしなるべく、而して二人が相識るに至りし機會に就いては、之を教如の片山伊賀に與へたる書信に徴すべし。利常に至りては初め一向宗を蔑視せしも、後その勢力の頗る強大なることを知るに及び、寧ろ之を保護して施政上に利用せんと企てたりき。東本願寺末寺の創建せられたる時に當りては、御城後町なる專光寺の堂宇を假用したりしが、寛永八年の火災以後寺地を轉ぜしめ、十一年工事に着手せしに、三州の庶民麕至して功を輔け、終に北國無双の大伽藍を爲し、教如乃ち書を門末に致して、彼等の協力して事を遂げたるを謝し、且つ信心の要を述べて之を警めたりき。その遷佛は十七年に在りと傳ふ。末寺の在る所はその後東末寺町といひしが、今横安江町に屬せり。 返々三日晝宗悦所過候て、かならず御出にて可有候。相つもる儀可申承候。以上。 今朝羽肥前(前田利長)殿吾等所へ御出にて候。大かたならざる御機嫌にて、まはりずみなど候て、たゞ今まで御遊にて候。連々貴殿御きもいり故と、滿足不過之候。然者貴所御上洛候て、つゐに何角と遲々候て不懸御目候。承候へば正月三日之晝森村や宗悦所へ御出之由候。左候はゞ其歸に我等一服申度候。御出候はゞ可爲本望候。久不申承候間はなし申度候。入御におゐては宗圓等へも可申越候。恐々謹言。 極月廿九日光壽(教如) 片山伊賀殿御下 〔相州西來寺文書〕 ○ 或時江戸(利常)へ上通御越被遊候時、關ヶ原にて道筋に人多有之を御覽被遊、あれは何事に而候哉と、谷與右衞門に御尋被成候ゆゑ、罷越與右衞門相尋候處、東門跡御通と承り拜みに近郷より罷出申と申候。其段申上候へ者、御機嫌惡敷、こじき坊主めを何拜み可申候哉と御意に而、明る日熱田御通り被遊候節、又昨日之通人多罷出申を御覽被成、笠間源六にあれは何事に而人多出申哉と御尋に付、源六罷越相尋候處、是も門跡御通りを拜みに出申由に付、其段申上候へ者、誰も成まい、生佛とは門跡の御事と被仰候。 〔異本微妙公夜話〕 ○ 伊藤内膳檢地奉行致し候節、在々に一向宗有之、寺地被下罷在候。是等取上地子に被仰付候へば、大分の御銀上り可申と申上候(利常に)へば、内膳合點せぬか、國の仕置大分門跡より被致、我等仕置は少分の事、一向宗が重寶々々と御意候由。 〔異本微妙公夜話〕 ○ 寛永十一年の春より、六條の末寺造營として、三ヶ國郡中町中寄進勸進相調、屋敷平均おびたゞし。先年は御城西北に當て、後町と云所に有。火事以後侍屋敷に成、奧野紀伊屋敷へ家を買居(スエ)にして渡りける。一向一心の信者共、金銀米錢糸綿山の如くに持運、請取々々の丁場の石或は板角釘金物幾千人宛持積て、異形異類の出立にて、三階矢倉の石搗の臺を拵へ、二三ヶ所にて地形を百日計つきにけり。其後石ずゑになり、老若男女集り普請を急ぎければ、誠に不可稱不可思議不可説の大功徳に依て、奉行人もなく催促もせざれども、此御普請に洩ぬれば此度成佛難成とて、八九十計の祖父祖母、孫や子共にかつがれて、石搗の繩に手を懸いたゞき奉り急ぎければ、墓行事限りなし。北國無双の大伽藍にてぞ有けると、諸人見物市をなす。近所の者共、此本願の利益にひかれて頓て富家とぞ成にける。 〔三壺記〕 ○ 一筆令啓候。仍加州金澤御末寺屋敷相替に付而、被成御再興度被思召、被成下御書候。此度之儀候間、周備仕候樣各可被入御情候。委曲金澤御堂衆可爲演説候。恐々謹言。 卯月十五日多賀主膳正名判 西川左馬助名判 八尾右京亮名判 宇野主水佐名判 松尾左近尉名判 粟津右近尉名判 能登國御院家衆中 御一家衆中 ┌──────┐ └──────┘ 〔富山縣小杉澁谷氏藏文書〕 ○ 態染筆候。仍金澤末寺、皆々馳走候て建立の由、尤難有候。則只今等身之御開山移置候。各被渴仰、彌法儀被相嗜候事肝要候。抑安心之一儀にをひては、諸の雜行雜修を抛て、一心に彌陀に歸命したてまつる人々は、みなこと〲く極樂に往生すべき事、疑あるべからず候。此上には佛恩報謝のために念佛せしむべきばかりに候。此通幾度も談合候て心懸肝要たるべく候。なを粟津右近可申候。穴賢々々。 三月廿四日(寛永十七年カ)教如 加賀四郡惣坊主衆中・同門徒衆中 〔專光寺文書〕 本願寺教如消息金澤市專光寺藏 本願寺教如消息