文政三・四年の交金澤を中心として東派の僧安心に關する解釋を異にする者互に相爭ふ。而してその一をお助け方と呼び、他をお頼み方といひ、前者を二字(南無)の安心と貶し、後者を四字(阿彌陀佛)の安心と罵る。五年春林幽寺擬講香流庵了暀上洛して、之を講師上乘院寶景に内訴す。本山乃ち十二月越中稗田の圓滿寺擬講靈暀・高岡光誓寺亮空二人を遣はして、了暀と觸頭善福寺に會せしめ、その所見相一致する所ありしを以て、兩派を招き説諭せしも、遂に和解するに至らず。後八年十二月お助け方西方寺賢幢・正福寺文祥・行雲寺惠什・因徳寺法巖・超願寺賢長・即願寺寂然・妙覺寺法賢・明達寺惠温・光徳寺文成、及びお頼み方普念寺靈沼・誓入寺北山・その子教忍・智覺寺梵龍・誓念寺縁淳・光徳寺藏俊・その弟大壽・本福寺の弟隆山・唯念寺顓學・寶藏寺雪巖を高倉學寮に集め、講師易行院法海・嗣講如説院慧劔之に臨み、兩者共に偏する所ある所以を告げてその局を結べり。世に之を加賀法論と稱す。 次いで羽咋郡赤崎一向宗東派長光寺の弟頓成、信機自力説を主張して正義を破斥す。頓成の師開悟院靈暀之を論せども可かず、自ら進んでその主旨を明らかにせんことを請ふ。弘化四年十二月本山乃ち之を召して香雲院澄玄・皆遵院宜成等をして糺問せしめ、頓成は一たび廻心状を呈せしも、嘉永三年更に越後泉性寺・尾張蓮光寺及び能登長光寺と共に、香雲院等の法義勸め方に關して疑義ありとし、三月開悟院を判者として對話を開席し、之が結果として先の廻心状は頓成に還附せられ、香雲院は閉門に處せられたり。是に於いて學寮の所化等この擧を不當なりとして、本山と幕府の寺社奉行に訴へ、騷擾止まず。八月所化二十人及び頓成一派皆江戸に送られ、頓成以外悉く所罰せられ、頓成は之を本山の輪番に附し、十二月以降本法院義讓・一蓮院秀存之を訊問し、五年二月頓成は之に服したるを以て幕府は之を江戸の獄に投じ、次いで墨刑を加へて豐後四日市に流す。頓成の配所に在るや端座して一室を出でず。明治維新の大赦令に遇ひて僅かに國に歸ることを得たり。而もその後尚前議を執りて屈せず、本願寺の爲に所罰せらるゝこと二回に及び、明治二十年十一月九十三歳を以て歿せり。